2012年8月12日日曜日

日曜日の話し(8/12)

毎月の月参りで亡父母への読経をお願いしている住職が盆供養に来た。帰りにパンフレット『はちす』を置いて行った。読むと大本山の一つである清浄華院の詠歌について説明がある。
雪のうちに 仏のみ名を 唱ふれば
      つもれる罪ぞ やがて消えぬる 
阿弥陀如来の名を唱えて只管に他力信仰を実践すれば、金銭欲、愛欲、名誉欲で汚れきった自分の心が浄化され、清らかになり、幸福に至る道に戻ることができる。そんな風な趣旨が書かれてある。

またまた古代ギリシア哲学に戻るが、ソクラテスは冤罪同様の裁判で死刑を宣告されたが、亡命の機会をことごとく断り、毒杯を仰いだ。死の前後に友人と交わした会話がいま残っているわけだが、人間は生きている間に色々な欲望で自分の心を汚す。欲望を制し、心をきれいに保つことが、<善く死ぬ>ということである。<善く生きる>だけでは十分ではないのであり、善く死ぬこともまた幸福に至る道筋である、と。そう語っている。もちろん、底流には記録者であり弟子であったプラトン自身の思想、つまり魂は過去から未来へと永遠に存在し、この世界における死の後、神の前に一度立ち戻り、そこで審判を受けるというイメージがある。だからこそ、古典『ソクラテスの弁明』の最終幕は、「さあ、皆さん、戻りましょう。あながたは生きるために。そして私は死ぬために」、ソクラテスの台詞で閉じられるのだ。

欲望に心を汚しながら生きている人間と、そんな状況から救われることこそ幸福と考える、そんな世界観において古代ギリシア人と仏教信仰は、何も異なっていない。

ギリシア人にとっては、欲望を抑えるのは理性である。浄土信仰において欲望から脱却できるのは、救済を願う信仰である。そういえば、ギリシア哲学では、正義や善悪、美と真理はしばしば話題となるのだが、<信仰>について対話が進むことは(小生の知る限り)ないのではないか。このあたり、一つ研究というか、小生の個人的趣味における探究テーマが一つ見つかったようでもある。

× × ×

亡くなった母は、フランスの印象派画家クロード・モネが大変好きであった。小生の高校時代は、父が担当したプロジェクトが迷走し、うまく行かなくなり、その悩みもあって父は体調を壊し、小生も近くにある病院まで薬をとりに使いをしたことが何度かある。地方の小都市から転居してきた母も、慣れない都会生活で健康を崩し、半月ほど入院することもあった。そんな頃であったな。小生はしばしば繁華街の書店にいった。モネの画集を買って帰ったのはそんな時期である。画集をみながら、母と一緒に茶を喫しながら、雑談で時間を過ごしたものであった。


Monet, "The Seine at Vetheuil"

モネと言えばやっぱり水と光である。が、その当時、どの作品を最も好んでいたかとなると、実はもう記憶が定かではない。母は、やはり有名な睡蓮が好きなようであったが、その母の晩年、還暦の日に画集「睡蓮」を買ってあげても、あまり嬉しそうな様子ではなかった印象がある。確かに同じ音楽を聴いても、今と昔と同じように感じるわけではない。小生にも母の気持ちは何となく分かるのだ。


上は、そんな風であった小生の高校時代、モネの画風を真似てP12号に描いた実に稚拙な油彩画である。絵の具の使い方も滅茶苦茶で、ジンクホワイトを置いたところは剥げてきており、更に真ん中左上部には引っ越しの際、乱暴に扱ったのだろうか、裂け目ができてしまっている。

不思議なことは、自分が高校時代に描いた作品を、もう一度、奇麗に模写しようとしても、同じように描けなくなっているということだ。どうしても今現在の自分が入り込んで、色が濁ってしまう。前よりも上手には仕上げられるのだが、力の抜けた、つまらない、ゴミのような絵しか描けないのだ、な。セザンヌなら憤怒のあまり、喚きながら、絵を破って丸め、そのまま火の中に投げ入れてしまうだろう。だから撮影して、ブログとして残すつもりもない。

17,8歳の頃に描けたように今は描けなくなっている。それはこの年齢になるまでに様々な欲望に心が汚れきってしまっている。その心の汚れや醜い姿が、絵に描く作品に滲み込み、それが作品を汚してしまうのだろう。そう考えれば、考えられないこともない。

だとすれば、自分の心の汚れ、醜い心の姿は醜いままに、汚れたままに表現しておく。それを残しておく。残した自分の姿を見つめる事で、せめて自分の醜悪な心を知る。それが善く死ぬためには最低限不可欠な努力ではないか。齢を重ね、偽善や自己満足はともかく、真の意味で世に貢献できる事もだんだんと少なくなる。そんな風になってから、人間に出来ることは、汚れた自己自身を自らが見つめる、その程度のことしか残っていないように思う。それが闘い終盤にさしかかり、タイムアップを予想するようになってから、誰であれ戦士ならばすることであろう。


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