2012年7月23日月曜日

賃金は上げるべきだ ー これがロジックか?

夏である。というには涼しい。いま22度である。ロンドン五輪、夏の甲子園が近づいているが、ピンとこない。また猛暑がやってくるのだろうか。

今日はビジネススクールの授業がある。実質的には最終回だ。次回は筆記試験をやって、それで夏季休暇に入る。とはいえ、最近は恒例の自己評価が複数種類あって、文書作成作業がやってくる ー もう誰も読まないであろう紙の浪費には違いなく、本気で文章を考えたのは高々三年くらいのものであったが。いまは役所仕事と化してしまった。これまた「パーキンソンの法則」を地でいっているわけだ。

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賃金 ー ただし名目賃金であって実質賃金ではない ー は上げるべきなのか?下げるべきなのか?

上の質問に真面目につきあおうと考える人は、(その人がいい人か意地悪な人かは全然別問題だが)経済学を全く勉強した事のない人である。というのは、ロジックとしては正解がないからだ。もらう側から言えば賃金は上げるべきだ。しかし、雇う側から言えば、下げる方がいいに決まっている。まあ、この社会には人を雇う側よりも、雇われる側の人数が多くいる。だから世論というか、声の数から言えば上げてほしいという人の方が多い。マスメディアは多数の声を支持するのが経営上の最適戦略だから、新聞には「賃金は上げるべきだ」という記事が出る結果となる。正解のないはずの問題に、あたかも「そうするのが正しいのに、なぜそうしない?」という記事を載せるわけなので、新聞が書く事は常に正しいとは言えない。新聞社の経営にとって正しい事を書くというべきであろう。

しかし、現在の日本の状況をどう見るという観点に立って、名目賃金を上げる方がうまく行くのか、下げる方が上手く行くのか?問題解決にはどちらが効率的なのか?こんな問いかけであれば論理的な答えはある。

橘木俊詔氏は経済学界ではビッグネームである。同氏が下のような意見を表明していると報道されても、驚く人はいない。
橘木俊詔・同志社大教授(労働経済学)の話 今の最低賃金の水準は低すぎて、とても生活が成りたたない。賃金が生活保護を下回っていると、働く意欲が失われかねず、一刻も早く是正されるべきだ。ただし、重要なのは生活保護の引き下げではなく、最低賃金のアップだ。経営側は、引き上げが企業を潰すと主張してきたが、従業員を養えない企業に存在意義があるのだろうか。また、被災地の企業には、別の枠組みでの支援が必要だろう。(出所:毎日新聞、7月22日)
そもそも労働市場で名目賃金が下がれば、
製品価格×限界生産力=名目賃金
という関係が経営最適化の条件になっていることを思い出せば、右辺が下がれば、左辺が下がる。だから雇用を増やして限界生産力を下げる余地が出てくる。生産性に固執しない余裕というべきか。もし雇用増加の動機が弱い場合は、販売価格を下げる誘因が働く。もしもリストラが進んでいて、限界生産力が上がっていれば、なおのこと激しく製品価格を下げて、売り上げ数量確保を狙う動機が強まる。こちらの方が近年の日本経済には関係が深いはずだ。もしもマネーサプライが過小でデフレ的政策が展開されているのであれば、価格低下→賃金低下という因果関係が作用するかもしれないが、現在の日本でそのような因果関係は絶たれている。とすれば、現状は賃金引き下げ→価格低下という因果関係に注意することが大事だ。

だから仕事の量はそのままにして、仕事の内容もそのままにして、支払い賃金だけは下げるという経営を容認するべきではない ー 従業員の雇用を守りたいという善なる動機があるにせよ、優越的な地位を濫用して賃下げを強要しているのかいずれであっても、である。つまり、考えている方向としては、小生は橘木氏の見方に賛成だ。

ただ橘木氏が述べている「従業員を養えない企業に存在意義はあるのだろうか」という箇所は多少の異論がないわけでもない。解雇をして利益が出るのであれば解雇をするべきである。生産縮小の必要性を市場が伝えているときに、仲間内の賃金を引き下げる事で生産数量だけを維持しても、それは価格引き下げ競争を激化させるだけの愚策であり、日本の長期的デフレは企業の日本的雇用死守政策から引き起こされている面が大きいからだ。下げるのではなく解雇をして、政府は新産業の拡大で失業者を吸収する。それが国内市場で困難なら、海外との連携、移民の促進、そのための語学研修・技術研修の強化を通じて国境を越えた就業の道を開いていく。それが本筋の労働政策であるはずだ。

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一口にいえば、<日本的雇用死守>を暗黙のうちにバックアップしてきたのは、日本政府である。政府は、<ワークシェアリング>と言えばいかにも理念の裏打ちがあるように聞こえるが、所得保障政策の民間委託と同じことを行ってきた。それによって、離職者の増加を抑え、財政負担の拡大を避ける誘惑に身をまかせてきた。構造変化をとめることで公的規制下にある規制産業の現状を守っている。非正規労働市場の拡大と待遇格差の拡大に目をつぶらざるをえなかったのは、そのしわ寄せである。海外投資の増加は、国内の利益機会が抑制されていることの結果である・・・まだまだ書けそうだ。


ジャパンマネーは、多くのジャパニーズの利益につながるように使うべきだろう。そのための方策を練るのがジャパニーズ・ガバンメントのはずだと、小生は思うが、必ずしもそうなってはいない。不思議だ。普通選挙と政党政治ではカネではなく、人数の多いほうの言い分が通るはずだ。にもかかわらず、より多数の日本人の利益に沿うはずの政策が実行されていない。むしろ多くの日本人が不利益をこうむる政策が採られることが多かった。ミステリーだ。


最終結果から逆に憶測すれば、日本では国民が全体として政策を決める仕掛けになっていない。だからこうなっているという「事後確率」が高い。たとえば政治活動に経費が必要な場合、資金調達力の違いから同じ政治家どうしで地位の上下が形成され、当選した議員の多くが一部政治家の意向に従うバイアスが生まれる。こういう政治プロセスモデルがあるかもしれない。また投票権を持っていないはずの大組織の意向が政治家の意見を左右しており、そのために普通選挙が正常に機能していないという政治的意思決定モデルがあるかもしれない。これらは、無論、小生にとっては憶測であり、仮説ですらもない。とまあ、確かにこういう推理はあるだろうなあ、ということだ。橘木氏はここまでは述べていないが、方向としてはこんな見方にもつながるかもしれないとは思っている。ただ上のようなモデルが仮に当てはまると仮定して、それは何かの制度的背景から合理的に生まれてきた病理なのか、日本のデモクラシーの未熟な本質を伝えるものなのか?そこまでは分からない。



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