2012年7月20日金曜日

責任感より、将来不安が世を動かすとき

どこに分類されるかだけから言えば、小生はいわゆる<既得権益層>に所属しているのだろうとは思う。

年間収入は、同窓生に比べれば半分ほどである。が、しかし、それは仕事に制約される時間が半分しかないからでもある。昨日は、カミさんと一緒に朝から映画を観に行った。平日で地方の港町であるから、海を望む地区にあるシネマコンプレックスは、他に数人がいるだけだった。ランチをして、帰宅すると2時である。今日は、夕刻の4時から数理統計学の授業がある。昼前から研究室に行くと昼食を食べに出るのが面倒だ。「やっぱり食べてから行くか」と。気楽なものである。こんな風なのだから、毎日忙殺され、週末にも緊急招集がかかる旧友たちの半分しかカネをもらわなくとも文句はない。大学で暮らす人間は大なり小なり、似たような境遇である。

それでもリタイア後は、白老か洞爺湖の辺に隠宅を買って、いま暮らしている海辺の町と行ったり来たりするか、そんなことを考えている。薔薇でも育てながら隠居生活をおくり、たまには品評会に出品するのは悪くない。絵も描かないといけないし、リタイアしても結構忙しい・・・・・明らかに生活上の余裕がある。政府は、消費税率を引き上げようとしているが、それよりも本当は所得税を引き上げる、特に累進度を高めて、余裕のある世帯にはより多く課税する。本当は、その方がずっと公平である。資産課税も強化するべきだ。しかし、いくら「本当はその方がフェアで正しいやり方だ」と頭で考えるにしても、年金制度を国家直営のままで維持しながら、どこまで増加するかが分からない生活困窮者を余裕のある者たちが税で支える。それが聞こえはよいが公権力から強要されるとなると、「自分たちの家族はどうなるのか?」、そんな将来不安が先立つのは仕方のないことである。困っている人を助けて、私的な互助関係を築く方がまだマシである。

窮極的に言えば、国がなくとも、自分はいる。家族がいる。親族がいる。生き続けようと思う。日本国が崩壊しても、ここはどこかの領土にはなって、それでも我々人間は何とかして生きようと思うだろう。なくなるのは社会制度だけである。国家がなくなって身を切られるのは、自分の身体を考えるのと同じように日本を考えることができる立場の人たちである。それは、古くは王であったし、市民革命を経た国民国家では、国家は皆の共有財産だから、国民全体がそういう痛みを感じるはずだ。そういう話になるのだ、な。日本という国がなくなる場合、国を伝えてきた天皇家は悲しむだろうが、一般国民は、どうだろう?本当は<既得権益層>こそ、日本国の存続に誰よりも関心をもち、国益への感覚を磨かないと理屈に合わないのだが、必ずしもそうならないときもある。

実は、ヨーロッパ世界とドイツ国家。この関係について個々のドイツ人も迷いの心境にあるようだ。独誌"Die Zeit"に以下の記事がある。ドイツ連邦議会がスペイン救済を了承した点についてだ。
Merkel, die strategisch denkende Naturwissenschaftlerin, sollte aber vor allem folgendes beschäftigen: Der fehlende Zuspruch ihrer Abgeordneten begründet sich nicht in bösartiger Renitenz, sondern in einer massiven Verunsicherung. Die meisten Parlamentarier sind keine Finanzmarktexperten, haben sich mühsam in die Euro-Rettung eingelesen. Sie sind sich ihrer europapolitischen Verantwortung bewusst und daher in überwiegender Mehrheit aus dem Sommerurlaub zu dieser Sondersitzung angereist. Sie würden den Euro gerne retten, aber sie fühlen sich – wie auch schon vor den letzten Abstimmungen – völlig im Unklaren gelassen.
...Eine Frage beschäftigt die Republik seit Tagen: Haftet jetzt Spanien für einen möglichen Zahlungsausfall seiner Banken oder tut das Deutschland über seinen rund 30-prozentigen Haftungsanteil am Rettungsfonds EFSF? Gibt es womöglich Hintertüren, versteckte Klauseln in den Vertragswerken, die am Ende doch eine Vergemeinschaftung der Schulden in der Euro-Zone bewirken? Stimmen die Zahlen überhaupt? 
(Source: Die Zeit, 19.07.2012 - 20:26 Uhr)
ドイツの連邦議員はバカンスで旅先にあったのが、スペイン救済という重要案件がかかるから戻ってきたというのは、いかにもドイツの国情を伝えていて面白い。彼らもヨーロッパのために果たすべき政治的責任については自覚している。だからこそ休暇から戻ってきた。しかし彼らは金融財政のプロではない。メルケル首相が言うように義務があることは分かった。ユーロを守る責任があることも分かった。しかし五里霧中の中に放り込まれるような不安が先立つ。それは次の段落にある様に、ヨーロッパ全体の債務にドイツが共同責任を負わされてしまうような、何かの密約(Hintertür)が隠されているのではないか、そういう不安である。そもそもスペインを救うというが、数字のつじつまは合っているのか?あっているなら助けるが、もはや死に体であるなら一蓮托生は嫌だという不安である。

日本の社会保障制度は大丈夫なのか?困窮世帯はこれからどれだけ増えていくのか?解決可能であるのなら、日本国のためにひと肌ぬごう。ぬぐだけの余裕はある。義務があることも分かっている。しかし、どうやっても駄目なのだ。やりくりは出来ないのだ。そうであるならもう一蓮托生は嫌だ。国がつぶれるなら自分たちで生きていく方策を探す。不安が行動を決めていく点では見事に共通しているではないか。多くの人たちの義務感、責任感を現実に引き出すには、勝利への道筋、成功へのプラン、戦略的な議論を目の前でビジュアル化しないと駄目だ。日銀は市場との対話が下手であると何度も指摘されるが、政府もまた国民との対話が下手である。その下手が物事の停滞をもたらしている。「何が何だかわからないが、彼ならやってくれそうだ」、そんな訳のわからないビジュアル化がつまりはカリスマなのだろうが、これまた国民との対話の帰結の一つである。

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