2012年7月3日火曜日

ぶれないことが最も大事なことなのか?

今日はエッセー、というより雑談に類することを書きとめておきたい。

小生の同僚の母上は、野田現総理のファンであるそうな、というよりか「あのぶれない所が総理らしくて、信頼できる」と評している由。

「ぶれない」ということは、洋の東西を問わず、大変重要な徳性であると思われている。確かに、危機に瀕すれば瀕するほど、絶体絶命に陥れば陥るほど、指導者がかざす目標こそが死守するべき価値となり、それが<下々の人>を鼓舞する。そんな目標はあってほしいものだ。まさに「親の屍を越えてでも」目標達成に力を尽くす。弔いは勝利の後だ。生まれてきた甲斐があるというものじゃないか。真の指導者が人々に真にやるべき事を与える。そうすれば団結心も醸し出されてくるものだ。人は誰か偉大な人物に直に命令されたいものである。この辺の状況は、たとえば塩野七生女史が「ローマ人の物語」(Ⅳ・Ⅴ)で古代ローマの英雄ジュリアス・シーザーの人物像を活写している。「指導力」とは何なのかを考える良い材料になるだろう。とにかく、シーザーという男、やはり「ぶれない」のだな。そこが歴史的に稀有なほどのリーダーであった所以だ。もちろん女史本人も古代の人物を知っているはずがなく、胸中のイメージが作品の中のシーザーに投影されているわけだ。とはいえ、ぶれないシーザーは自己の意志を貫き、共和制末期のローマを内戦状態に陥れ、それに勝利したらしたで独裁者を目指しているとの疑いから自らは共和制支持者によって暗殺された。彼の甥が後継者になり最終戦争に勝ちぬき、帝政への移行を実現し、国に最終的平和をもたらしえたのは、多分に偶然によるところが大きいと思う。

大震災前から「危ない」という声が一部関係者にあったと言われている東京電力福島第一原発。「福島第一は危ない」説と、それに対する経営陣の姿勢はどうであったのか。そんな指摘に勇気と方向感覚を失うことなく、同社は一貫して立派な仕事をしていると。安全性について誇りを持てと叱咤激励し、社員から不安をなくし、士気高揚に努めていたのだろうか。だとすると、そうした指導者像はぶれない指導者として内部から求められていたことなのか?う~ん、もし小生が同じ立場であったらどうしたろうか。思わず考えあぐねてしまうのが偽らざる思いだ。

ま、どちらにせよ、いまとなっては問題提起すら無意味なほどの愚問になってしまったことが限りなく悲しい。「正攻法で行こう」と言い、それより先に敵機が来襲して、<負けるべくして>負けてしまったミッドウェー海戦を思い起こさせる。負けるべくして負けたのではなく、<不運にも>という形容句がより適切なのだろうか?

× × ×

言いたいことは、よき指導者でありたいと願っていることは、誰であれ変わりがあろうはずはない。迷わず、ぶれず、確固たる姿勢を仲間に見せることが、トップにとって大事であることも分かっている。が、その一方で、危機が近づきつつあるという情報に接すれば、そこで方針転換を即座に打ち出し、危機対応の指示を出すのもまた指導者がするべきことである。

「これで大丈夫だ」、「危機は来ない」と言いつつも、実際に危機がやってくれば、それは誤算であったわけだから、それまでに言ってきたことは間違っていたことになる。そこなのだ、な。歴史の分岐点は。

いま何をなすのが最も合理的か?頭の良い人間であれば正解を出せる。しかし1年後において、予想と現実は違う。その違いが<想定外>であれば、前提が崩れた以上、1年前に下した意思決定は撤回するのが賢明だ。そこで当初の計画に固執するのは頑迷であり、愚かである。しかしながら、賢明な人、利発な人が、多数から尊敬されるわけではない。尊敬なくして指導者が指導者であり続けるのは困難だ。だから指導者は往々にして情報を軽視する。結果として賭けに出る。それが的中すればよいが、間違えれば人災になる。真の指導者であれば、勇気もあるはずであり、<撤退>に迷うはずはない。この合理的判断をためらわせる要素が何なのか、正直、よく分からない。

単に「ぶれない」だけでは非知性的蛮勇と同じになる。昨日まで言ってきたこと、やってきたことを、今日もまた決然とやる。それだけなのじゃないか?これでは余りに非知性的であろう。小生の希望は、即断即決でなくとも、ぶれてもいいので、指導層には<知性>のある<賢明>な人物が多くいてほしいということだ。

昨晩、授業が終わってから、高速バスの車中でこんなことを色々と思いながら、家路を急いだ。


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