2012年6月3日日曜日

日曜日の話し(6/3)

美術は千年さかのぼって見ても、名作はやはり名作である。稀な名作の裏には無数の凡作があったに違いない。それらの凡作は現在まで伝えられず、所有者の手を離れたあと、それほどの時間を必要とせず地上から消えていった。今はもうない、というのはそういうことだ。

千年前の日本は平安時代であったが、その時代の普通の人が所有していた身の回りの装飾のほうが、今日まで残っている仏教絵画などの美術作品よりも、よほど数多くあったはずだ。しかし、それらは廃棄されたり、焼亡したりして、全てなくなってしまった。どれほど見たいと思っても、現代の日本人は見ることはできないのだ。よほど世間に流布された「源氏物語絵巻」など、ごく少数の作品は模造品などが制作されたので、それが作品の長い寿命を保たせることになった。贋作には贋作の歴史的使命があるというものだ。著作権など小うるさく主張するものではないという指摘も一面の真理である。

先日、発注したiPadが届いてから数日間、手なずけるまで時間を要した。やっと落ち着いてきたところだ。


上はiPadのアプリ"Paper"で描いてみた。フ~~ム、これがタブレットで描けてしまうなんてねえ・・・。スケッチブックなんて、もういらねえじゃねえか。書き間違えたら、消しゴム・モードにして消せばよい。あっという間に、最初から。便利だ。

下はカンディンスキーとも交流があり、青騎士旗揚げ時にも参加し、年刊誌"Der Blaue Reiter"にも同人フランツ・マルクの友人として『仮面』を寄稿したアウグスト・マッケの作品"Vor der Regatta"である。制作年は不詳だ。



制作年は不詳だが、画家マッケは1887年に生まれ、1914年には第一次大戦に従軍しフランス・シャンパーニュ地方の村ペルト・レ・ユルリュで早すぎる死を遂げている。彼の瑞々しい画風は、1907年に最初にパリを訪れ、印象派による美の創造を観てから形成されたものである。20歳の時だ。上の作品からももその薫りがうかがえる。してみれば、上の作品が描かれたのは、1910年代の中のいつかであることは、ほぼ間違いがない。

マッケの作品が100年後の今日まで残ったのは彼が死んだあと、未亡人エリーザベットと再婚の相手ローター・エルトマンの努力の賜物である。ナチス政権による文化抑圧をかいくぐって美術作品を保護するのは大変だった。その事情はカンディンスキーがドイツに残した作品を守ったミュンターも同じだった。コピーはとれないし、収蔵のためのスペースも必要だし、湿気から守る必要もある。真作はたった一つしかないのだ。他方、iPadで描けばコピーはいつでも作れる。SDカードに何千枚も保存できるし、持ち運びは至極便利、隠せば発見もされにくい。

しかし電子芸術は、記憶媒体とともに再生装置やその再生装置を動作させるソフトウェアが全て毀損されることなく完全な形で残されなければ、SDカードだけがあっても役に立たない。小生思うのだが、今日のSDカードやUSBメモリーは平安時代の屏風や扇にも似て、一定時間がたった後は何一つ残らないのではないか。そんな気もする。ま、ファイルが残っていればいいわけか。だとすると、形のないファイルとして残りますかね。しかし、ファイルを相手に真作とか偽作とか騒ぐはずはない。

それはちょうど、神田の古本屋街で昭和40年前後の『週刊少年マガジン』が一冊1万円前後で売買され、その隣の店では岩波書店が発行した『漱石全集』全16冊が価格8千円程度で売られている。こんな事情ともどこかで似ているようである。

0 件のコメント: