2012年5月14日月曜日

行政における機密について

先日までTBSで放送された「運命の人」は沖縄返還にともなう日米間密約をスクープした西山太吉記者をモデルとするドラマだった。その本筋は、国家公務員へ機密漏洩を求める行為は、それ自体が犯罪になるというものだった。

それが本当に正しい判断なのかはさておき、今日書いておきたいのはその<機密>である。確かに外交上の機密はあるだろう。最終的合意に至るまでに辿る様々なやりとりが、ただ知りたいという国民のために、その都度一言一句公開されてしまっては、有利な譲歩を引き出すための駆け引きや打診も不可能となり、「正直これ一途」しか選べる戦術がなくなってしまう。これでは相手が交渉上の優位を占め、結局、自分たちの首を自分で締める結果になる。これは確かに理屈である。

しかし行政府が機密を守ることが、社会一般の利益につながるというロジックはないというのが原則だ。

× × ×

たとえば今朝の新聞で報道されている広島・三原のホテルプリンス火災事故。防火対策上の多くの不備が以前から何度も指摘されていた。指摘されているにもかかわらずホテルは対処策をとらず、今回の事故に至り、7名の死者が発生した。

行政が防火上の指導を行うのは、定められた基準があるから指導するのであり、基準を満たさなければ不適格である。不適格なら改善を指導するべきである。その指導に従わないのは改善の意志がないわけであり、そう認識すれば営業停止処分をとるべきである。停止させないならその理由を行政文書として記録し、保管し、ただちに住民の閲覧に供するべきである。文書媒体に加えて、インターネットなど閲覧の利便性向上をも図るべきだろう。これがロジックだろう。

不法行為によって利益を得ている個人が、その個人情報を公開されることによって受ける損失は、その情報をみることによって残りの個人が得る利益には及ばない。違法なり、不法なり、不当な状態の存在について行政が知り得た情報を提供することは、住民から委任され、業務を代行している行政機関が果たすべき最も重要なミッションではないのだろうか。裁判は、日本国憲法82条で公開の原則が規定されている。特に国民の権利に関する裁判は、裁判所側の考えによらず、常に公開しなければならない。司法は密室で行ってはならない。行政プロセス上の事実を公開するのは、国民と行政府の関係を考えれば、同じことである。

そんなことはないと思うが、査察をする行政と査察をうける業者が密室で「こういう状態は違法なんですよね」、「それは重々分かっているんですが、資金繰りがいま窮屈でして、少し待って頂けないでしょうか」、「そうですか、今回のところは改善に向けて着手していると報告しておきますから、速やかにやってくださいよ」。次回は次回で別の担当者が「着手となっていますがどうなりました?」、「それが予定外の工事が入ってしまって、その代わりに緊急時にはこういう体制をとることにしました、何とか今年度はこれでいこうと・・・」。以下、無限ループが続く。もしこんなやりとりが(万が一)あったとすれば、双方に有利なバーターがあったと推察するべきだろう。

おそらく今回火災事故を起こした福山市のホテルは、経営陣に組織暴力団が関係しているか、あるいは何かヤバい事情があったのではないか。そのために市の指導が及び腰であったのではないか。その辺は、今後の事故調査なり行政監察なりの場で、経緯・背景が明らかになるであろう。明らかになった上でその報告を求める権利を地元の人たちは持っているはずである。

× × ×

行政のプロセスは、あらかじめ了解された事項以外は、すべて国民・住民に対してオープンになっているべきである。それが権力の集中を防ぎ、密室化を防ぎ、そのことが政治家が不当利益を得るチャンスをなくす。そうすることを通じて、金持ちになりたいが故に政治を選ぶという誠に劣悪な政治家の発生を防ぎ、真に公に尽くしたいという人間に官僚・政治家への道を開くのだ、と。小生、そう思うのですね。

0 件のコメント: