2012年4月11日水曜日

国が全国民を相手どって提訴はできるのか?

国にせよ、国家にせよ、それは単に仕組みであって現存在するものではない。しかし、国が人格を備えた法人だと考えておこう。

国と国民との間には権利義務関係がある。それは双務的なものである。国が国民に何かをするからには、反対給付がなければ実行不能である。これは当然だ。そもそも国は、本来なにも持っていないのであるから、国民が先に提供しなければならない。

国と国民の双務契約を規定しているのが<憲法>である。日本国憲法には国民の権利、三つの義務が規定されているのは小学校から習うことである。義務と言うのは、すなわち納税の義務、教育の義務、勤労の義務である。

これが「三大義務」であるという言い方で記憶に残っているのだが、そうだとすれば腹立たしいほど瑣末な規定でしかない。なぜ義務教育を受けさせる義務とだけ言うのか、日本人はすべて子供を愛し、育み、健やかに成長させていく総合的な養育義務を負っているのに決まっている。将来世代を牛や馬のように低コストかつ効率的に生産するのではなく、全人的にバランスのとれた十分な教育機会を与える義務を負っているに決まっているではないか。小学校や中学校だけで「はい、義務は完了」ではないのである。できれば、自分の子供だけではなく、地域近隣の子弟すべてを育む精神があればもっと理想的ではないか。しかし憲法では「義務教育」を受けさせるという一断面だけをとりあげている。この一点だけでも現行憲法は理解不能ですな。おそらく軍国主義、有用な人材を確保することを第一とする生産重視思想。ここに由来する規定だと思われる。この一点からも、敗戦で虚脱状態になり、思考能力を失っていた時に日本国憲法が制定されたことが窺われる。そう思うのです、な。

それから納税の義務だ。1円でも税を負担すれば義務を履行したことになるのか。そうではないと考えるべきだ。国民は、国民が運営する国家が公的活動を行うのに十分な資金を税として支払う義務がある。一時的には資金繰りから国がカネを借りてもそれは許される財務技術であろうが、10年も20年も税収が不十分であるのは、許容されないはずである。そういう風に解釈しないと<納税の義務>という規定は、規定した意味がないであろう。だとすれば、国家予算の半分未満しか税で調達できないという現在の状態は、そもそも論で考えれば、憲法違反である。国は租税調達権に基づき、国民を提訴できるロジックではないか。

とはいえ国民は勤労の義務がある。働けなければ支払い能力がなく税を納めることができない。義務であると規定するなら、国は勤労の場を設ける義務がある、そう考えるべきなのか?ということは、国民は憲法上の規定とは反対に日本国内で働く権利があると考えるべきなのか?「べきだ」と言う人もいるだろう。しかし、小生はそうではないと思う。生活に窮すれば、先祖は移住をしてでも、移民をしてでも、自らの人生を切り開いた。勤労の義務の裏側には、働く場がある所に自分の身を移動せよという含意が含まれる。そう考えるべきなのではないか。国内に雇用機会がないからと言って、それを理由に税負担を回避することは予定されていないのではないか。

自分が暮らす地域に雇用機会がなければ、冬季は大都市に出稼ぎに行くことで所得を補い、その所得で家族を養い、家族が暮らす県や町に税を支払った。かつての地方の農家の行動と同じことではなかろうか。現にフィリピン、南米、トルコ等々、雇用機会を海外に求めることで、文字通りグローバル規模で勤労に励んでいる国と国民は数多い。それと同じではないか。

戦後の日本国は、日本人が選んだ国会の意志を抑え、議会に反して国家意志を強行しているわけではない。だとすれば、憲法という双務契約に違反した場合は、国が行政訴訟の対象になるだけではなく、義務を履行しようとしない国民全体もまた提訴の対象になりうる。そう考えるのが、ロジカルではないか。

最近は原発、再生エネルギー、大地震への対応など、何かといえば官庁の法規掛が関係してくるような世情だが、もしそれほど法規が万能ツールであるなら、その大本である日本国憲法の規定なりスピリットは厳守されているのか、改めて再点検してみたらいいのではないだろうか。

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