2012年4月1日日曜日

日曜日の話し(4/1)

昨日は北国も天気が大荒れとの予報があったが、過ぎてみると大したことはなかった。朝方は台風一過のような青空さえも見えていた。


先週は16世紀から14世紀へ遡った話しをした。そんな風に前へ、前へ遡っていて、改めて気がつくのだが、どんなに調べても今日慣れ親しんでいる西ヨーロッパ美術に関しては、13世紀が限界というか、その以前の「ゴシック美術」の作品例は中々データが集められない、特に絵画作品に関しては。どうやら専門書にあたらないと分かりにくいようなのだな。たまにあってもほとんど全てはイタリア人芸術家による作品であって、その他の地域ではどのような文化活動が展開されていたのか、データ収集が急速に難しくなる。この<ない>という状況が、小生にとっては、甚だ興味がある。


しかし、実は誰でも知識としては知っているはずだが、12世紀はおろか10世紀にまで遡ると今日のギリシア、東欧、トルコの地域にかけて大国が存在していた。即ちビザンティン帝国であり、又の名を東ローマ帝国と呼ぶ。西ヨーロッパが暗黒時代に沈んでいた時代、世界の富と文明はマケドニア朝ビザンティン帝国に集中していると言われていた。その帝国はイタリアの都市国家と経済力が成長するに伴って競争力を失い、十字軍による略奪に遭ってからは帝国の権威を喪失し、領土を失い、最後は枯れ尽きたように15世紀半ばに消滅してしまった。現在のイスタンブールはその残骸のような都市である。


しかし千年にわたるビザンティンの文化的影響がないはずがなく、初期ルネサンスの写実主義もビザンティンの影響があると言われている。帝国が丸ごとオスマントルコに占領されたこと、西欧とは異質のロシア帝国が後継的地位を占めたことなどから、西欧とビザンティン帝国の文化的相互浸透はこれまで研究の積み重ねが比較的薄かったとされているようである。ま、芸術史的にはフロンティアになっているそうな。


Archangel, 1130 - 1200 
Source: http://www.novgorod.ru/english/read/information/icon-painting/part2/


ビザンティン文化の精髄は、一つには写実的モザイクと非写実的イコン(Icon)にあると言われている。そのイコン制作の伝統はロシアに伝わり、ギリシア正教文化とともにロシアで独自の発展を遂げている。モザイク芸術自体は12世紀以前の西ヨーロッパにも多数遺されている。それらはやはりイタリア人による作品が大部分を占めている。

(小生を含めて)現代の私たちは「イタリアから」ヨーロッパを辿り始めることが多いが、日本史とシンクロさせてしまえば鎌倉時代である。鎌倉時代の前に王朝文化が完成していたように、イタリア・ルネサンスの前に古典古代を継承する完成された文化があった。そのことはとても大事なことではないか。そんな気もするのだな。実は、傷心のゲーテがイタリア旅行に発ったのは、ルネサンス紀行ではなく、古典古代の遺産に直接触れるためであった。それが『イタリア紀行(Italienische Reise)』である。ましてそれが<失われた帝国>の育んだ果実であるなら、その文化的古層を調べることで、いまの価値観では非常識と分類されている思想も、案外、長い年月のあいだ常識と見なされていたことを確かめられるやもしれないのである。古代ローマ帝国の伝統を引くビザンティン帝国が、かくも長期間持続したのは、確固としたイデオロギーと周辺環境に対応して柔軟に政治制度を改革した二つの点にあったと考えられているようだ。

真物を、将来是非見る機会を得ようと思うが、少なくとも映像を見る限り、ビザンティン文化の影響をうけた芸術作品は深い魅力をたたえていると感じている。

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