2012年2月28日火曜日

宇宙エレベーターの話しをするならニーズを言わないと

朝の珈琲を飲みながらフジの「とくダネ!」の画面を何気なく観ていたら、宇宙エレベーターの建設構想の話しが出た。日本を代表する某大手ゼネコンのエンジニアが何人か、「100%本気で推進します」と力んでいた。人工衛星軌道だから1000キロだったか、2000キロだったか、それ位の上空までカーボンナノチューブを通して、人工衛星の遠心力とバランスさせて静止させようというもの。そのチューブ内をエレベータが往復する。チューブが自分自身の重量とアンカーとなる人工衛星から加わる引っぱり力の作用で破損することを防ぐには、チューブは極めて薄く、軽く、かつ強靭な素材で製造しなければならない、それがカーボンナノチューブである、というのが勘所だった。

宇宙エレベーター自体の話しは大変陳腐なものであり、たとえば著名なSF作家アーサー・クラークによる「楽園の泉」は、正に同じ構想をテーマにした傑作だ。随分昔に読んだが、今でも手元にある。手に取ってみると裏表紙に「オークランド空港で読了」とある。多分、日本が消費税を導入するとき、統計上の取り扱いを研究するためニュージーランド統計局を訪れたとき、機中で読んだものと思われるのだが、全く記憶がない — だから本というのは読み返しても面白いのだな、忘れちゃうということだ。

× × ×

ただ今日のテレビは、残念なことに、必ずしも若い頃に読んだSFを思い出し、そこに込められた夢がよみがえるという、そんな風にはならなかった。

確かに、宇宙エレベーターを建設するだけの高度の技術を大手ゼネコンは持っているのだろう。しかし、顧客のニーズはあるのか?そもそも顧客は何人いるのか?なぜ作るのか?需要はあるのか?というか、これはビジネスですか?そんな素朴な疑問である。需要がなければ、作れるとしてもムダ、とまでは言わないが必要性の薄い技術だろう。多くの人が求めている技術を磨くのが先決なんではないですか、と。民間企業なんだから、と。どうしても、小生、こんな思いになるのですね。

小生が少年の頃、<新幹線>という言葉はなく、<夢の超特急>と呼ばれていた。夢である。しかし夢は夢でなく、新幹線というビジネスとして成功した。それは非常に多くの人の役に立ったからである。多くの人が求めていることを見抜き、それを現実に解決してあげることこそ、優秀なエンジニアの証しなんじゃないですか?誰でも、同じことを言うのではないだろうか?

<優秀>という言葉の定義を問うているのである。

需要があって、顧客評価が高ければ、テレビで話しをせずとも、とっくに事業に着手しているだろう。それをしないでテレビで手の内をあかすのは、グローバル・プロジェクトか、せめてナショナル・プロジェクトにして、大口の仕事をつくってほしいということか。市場競争では勝てなくなったO社を、世界の国民が支援する。それだけの技術を経営資源として持っているのです。なくなったら勿体ないでしょう。それが狙いか。

小生も「楽園の泉」を夢中で読みふけったのだが、テレビの話しを聞きながら思ったのは、<夢>ではなく、<もたれあい>という言葉である。確かに100の価値があるのであれば、ないよりはあったほうが良いに決まっている。しかし、それを実現するのに200の支援を必要とするなら、それは多くの人にとっては迷惑である。まして作った後の運営コストは将来世代へのツケとなるのだ。

夢を語るのであれば、20年前に夢として語るべきであった。クラークの作品は読む人の心を広々と広がる宇宙空間に連れて行ってくれるような気がしたが、大手ゼネコンが同じ話しをテレビで語ると、内容は夢であるが、観る人にはおカネの話しにきこえてしまった。すばらしいテーマであるだけに残念だ。

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