2012年1月30日月曜日

スタッフの業か?為すべきことを諦め、為し得ることを為す

好きな作家にアイザック・アシモフがいる。ア氏のファウンデーション・シリーズはデューン「砂の惑星」とともに小生が若かったころ、仕事仕事で無味乾燥だった毎日を支えてくれた大作である。そのファウンデーション・シリーズは、ア氏が他界した後、グレゴリー・ベンフォードの「ファウンデーションの危機」によって書き継がれた。そこで出てくるショート・フレーズ
天才は為すべきことを為し、秀才は為し得ることを為す
これが、小生、とても気に入っているのだ。

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時々、想像してみる。いま経済産業省に勤務していてエネルギー事業を担当していたらどうであったろうと。そもそも福島原発事故による損害賠償債務はサンクコストであり、東電はその債務弁済を電力事業で回収することはできない理屈だ。できるとすれば、顧客が東電以外の企業からエネルギーを購入することが不可能で、しかもそれを政府が担保している。そんな法的独占が必要である。しかし、法的独占の下で賠償支払いを円滑にするに十分な価格を設定しようとすれば、やはりそれは政治的に可能ではないだろう。また、首都圏だけをそうしても意味がない。日本全体でエネルギー独占体制を堅持し、その枠組みの中で賠償債務を価格に転嫁する。事業で回収しようとすれば、こうするしかないのがロジックだ。理屈としてはあるが、実際には製造業の海外シフトを加速させるだけだから、どう考えても東電による円滑な賠償支払いは無理である ― しかも現時点においては、原発再稼働を社会が受け入れるかどうかというハードルまである。

とすれば、企業として東電が保有している資産を売却して賠償するしかない。債務超過に陥れば、あとは国の責任になる。国の責任を東電に対する公的資本注入という形で実行するか、それとも東電を清算して、別の組織が賠償債務を引き継ぐか。行きつくところは、この点の検討しかないわけである。

しかし、「この点の検討しかないと思うのです」と述べたところで、「誰も君の考えを聞いちゃいないよ」という風にしか物事は進んでいかないだろう。そもそも総理大臣や経済産業大臣が考える線に従って物事を進めることすらできないのが現実なのだから。現時点で政策決定を支配しているのは<ロジック>だけではないだろう。東京電力という巨大企業に残っている生存本能、政治家との仁義、責任回避を求めるエゴ等々、あらゆるファクターがもつれ合っているはずであり、一人一人の官僚が構築する理屈は、しょせん理屈でしかない。

与えられた組織の中で与えられた責任と権限の中で仕事を全うしようとすれば、自らの為し得ることの中で最善の選択肢をとることで満足するしかない。たとえそれが、学問的な見地から正当ではないと自らは考えていても、組織とそれをとりまく社会が容認しないのであれば、為すべきことを為すことはできない。秀才は努力をすれば誰でもなりうるが、天才は努力をしてもなれるわけではない。秀才は教育によって養成可能であるが、天才は社会がそれを認めるかどうかにかかっている。

為すべきことを為す人材がいないとすれば、それは天才が権力を得る機会がないからだ。アシモフ=ベンフォードならそう言うにちがいない。真の天才は、機会が与えられずとも、自らが機会を創出して、それを為すのであろうが。

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