2012年1月15日日曜日

日曜日の話し(1/15)

本日は、大学入試センター試験の二日目があり、どっぷりと試験監督につきあって来た。昨年度と違って、理科が二科目受験と一科目受験の二本立てになったので、二日目の試験は相当楽になった。昨年までは理科①、理科②、理科③まであった(と、記憶している)。終わると6時だった。それが今年は4時。始まりも2限目の一科目受験だから10時半。いやあ、これは楽です、というところ — もちろん裏があって、昨日の試験監督をした人は疲労困憊したはずだ。

どちらにしても大学入試センターという一組織の判断で、受験者数十万人およびそれを監督する人たちが振り回されている。問題の配布ミスが相次いだのもシステム変更があった今年の特徴だ。なんせブッツケ本番ですから。

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そんな今日、音楽ならどんな音楽を聴きたいか、絵画ならどんな作品を観たいか。ルネサンスの名画なんて、今日は観たくはない。息苦しくて、鬱陶しい。そう、すべてを壊してくれるものがいい。じゃあ、ギンギラギンの野獣派か。これまた、フランス表現派と言えるだろう。表現派の本質は、内心の真実であり、ズバリ、<生きていること>である。小生が、こんな駄文を書きながら、急速に魅かれていく画家、それはまずはゴッホ、というより今日はピカソだ。ピカソはアフリカ芸術から受けた衝撃が土台になっている。そのピカソが描いた愛の形。

Picasso, Les Amoureux, 1919

愛なのか?と思って観ていると、そのうちドオンとくる。

慈愛、温もりは、官僚組織とは一番縁遠い心情だ。官僚的手続きからは、絶対に期待できないもの、それが愛である。俗に「きめ細かく」などと政治家の方が宣わっているが、そもそも近代行政組織が「きめ細かく」という時は、もっと多数の人間を使ってという、それだけの意味に過ぎない。心ではなく数量の話しである。この点、ほとんど全ての方は分かっているはずである。

入試センター試験もそうである。官僚による大学入試である。大学入試という人間作り、ヒト作りにつながる選抜を、官僚システムによる入試事務としてやっている。分かっているのかなあ・・・と毎年一度は思う。「こういうものだと、日本の人たちは思い込んでいるのでしょうねえ・・・」、一緒に監督をやった同僚と今年も話しをしたのだが、<官僚と入学試験>、もっとも縁の薄い組み合わせだと思うがなあ。多くの人は、大学入試も役所の責任で滞りなく実施してほしいと心底から願っているのだろうか?配布ミスや問題文のミスプリこそ、最もなくすべき事柄だと本当に思っているのだろうか?この疑問は、ずっと持ち続けていて、まだなお未解決なのである。

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