2011年8月18日木曜日

覚書 ― ビル・エモット氏のニッポン再興論

昨日の日経経済教室「ニッポン再興の時(上)」にイギリスの経済誌The Economistの元編集長であるビル・エモット氏が寄稿している。どんなことを書いているのだろうと、思わず読んでしまう。

要点は最後に近い以下の下りであろう。
日本は何をめざすべきだろうか。遠くから日本をみている外国人として、筆者は知識、ライフスタイル、サービスの面で大国をめざすのが日本にとって実現可能な正しい方向であると考える。別の言葉でいうなら、日本の真の長期資産を本当に生かせるような事業、産業、職業に集中することだ。この真の長期資産とは、日本の人々であり、その知力であり、助け合いや触れ合いである。 
過去半世紀、日本は主に製造業に力を入れてきた。かつては適切だったが、いまとなっては現代にふさわしいとはいえないし、筆者のみるところ真に日本的でもない。
日本の製造業を国内で経営しようとしても、もはや限界に来ている、何年も言われ続けていることであるが、大震災後の原発事故と電力不足で堰を切ったように海外移転が増えてきている。その中での上の指摘である。なぜ製造業は<現代的>ではなく、かつ<日本的>でもないと言うのだろうか?
現代的といえないのは、今日の富裕な先進国ではモノよりもサービス(法務、娯楽、レジャー、マーケティング、芸術、教育、医療、観光など)の取引の方が圧倒的に多いからである。経済活動の7割以上はサービスで占められているにもかかわらず、日本ではこうしたサービスが非常に遅れているうえ非効率だ。
日本的と思えないのは、日本文化の本質は助け合いや共同体づくりや問題への協調的な取り組みにあると考えるからだ。これらは工場で生み出されるものではない。人々の協力を促し強化するような知識やサービスこそが、威力を発揮する。日本は日本的であることをめざし、知識、ライフスタイル、サービス大国をめざすべきである。そのためには自信と共同体の連帯感を取り戻す必要がある。きっと日本にはできるはずだ。
サッカーと同じですね。日本人が日本のサッカーに徹することでライバルに対する優位性を獲得する。実にオーソドックスである。技術導入で勝てる時代ではありません。

だから今は「ポスト産業社会である」と、誰しもが耳にする。「もはや産業社会ではない」というのは、単なるモノを製造しても高い価値を認めてくれないからである。というより、もはやモノ作りは時代の最先端を切る産業分野ではなくなりつつあるからである。「付加価値をつけろ」というのは、コモディティという次元には属さない、自分と他者との違い(=差別化)を求めるということであり、それはオンリーワンの価値であるという意味で<自己表現>である。本当に他国・他人が高く評価するのは、単に<作れる>ということではなく、それを<創造>したということだ。<安く作れる>ことは本当に価値あることではなくなった。そんな認識が根底にある。ルーティン・ワークは重要ではあるが、誰でも訓練次第で出来るが故に、本当にかけがえのない価値ある働きではない。これは、やはりそうなのだ、と小生も思うわけだ。

客に対するそんな自己表現は、<馳走>であり、<一期一会>であり、伝統的な日本文化そのものでないか?言われれば当たっていると思うのですよね。

日本人は製造業ではなく、知識やライフスタイル、(他人への)サービスにおいて、どこよりも高い評価を目指すべきではないのか?筆者のエモット氏はそう言っているわけで、その目線はやはりイギリスから、というより歴史を通して外国が日本を見てきた目線なのではないか。そう感じてしまうのだ。自分の長所や強みは、中々、自分では分からない。もちろん短所や欠点も自分では分からないものだ。他人だから、日本に住んでない外国人だから、よく見えるってことはある。

本日の日経朝刊のコラム記事「新しい日本へ」。本当に戦争にでも負けて再出発している国なのか?タイトルだけをみるとそう見えますよね。IT企業セールスフォース・ドットコム社会長のマーク・ベニオフ氏の談話が載っている。

― (日本人は)ハードウェアの「ものづくり」は得意だが、ソフト・サービスは苦手という固定観念もあるようだ。

そんなことはない。携帯電話向けサービスを展開するグリーやディー・エヌ・エー(DeNA)は世界的にも有力なIT企業だ。楽天などインターネット企業も育っている。まつもとゆきひろ氏が開発したプログラミング言語の『ルビー』は世界に普及したではないか。
現実と先入観(もしくは偏見)に乖離があるということだろう。

先入観といえば、日経ビジネスの本年3月21日号に「日本人の競争力」が特集されていた。その中に「データで見る日本人 ― 内向き論のウソ」があった。学力や所得格差などにおいて傾向的に上位に来る小国を除き人口4千万人以上の大国だけで比較をすると、評価項目31項目のうち7項目で日本はトップとなり、2位ないし3位であるのが6項目ある。内向きであるとの批判が、特に若年層に向けて口にされることが多いが、確かにアメリカへの留学生の絶対数をみれば97年比で4割も減っている。しかし、18歳から29歳までの留学適齢期人口に占める比率で見ると、ずっと上昇傾向にある。留学先も、アメリカ集中型ではなく、北米が47%、アジアが30%、欧州が16%と分散型になってきている。減ったのは社内派遣の留学生であり、個人留学は増えている。

海外で働きたくないと回答する新入社員が49%もいたという調査結果(産業能率大学調べ)が公表されてショックを与えたが、「どんな国・地域でも働きたい」と答える新入社員も27%を占めて過去最高になっている。海外勤務・異動に積極的なのは、20代であり、30代、40代にかけて低くなっている。若年層が内向きというイメージと現実は随分違いがある。

日本勢が新興国との競争で苦戦を強いられることが多いのは、日本人の強みを発揮できない仕組みの下で勝負しているからではないのか?調査データをみても、本日引用した外国人の寸評とほぼ同様の実態が浮かび上がってくるのである。

事実認識が間違っていたら、どんなに頭を使っても勝利の方程式は絶対に見つからない。3月以降の福島原発騒動をみても、住民避難を見ても、共有するべきは正しい情報であり、間違ったデータや、タメにする流言を共有しても無意味である。というより有害である。正しい情報は、社会のニューラル・ネットワークであり、社会全体の生命を維持する公共財である。その意味で、ウソや隠ぺい、虚偽報告は、狭量な仲間意識と派閥主義がなせる社会悪であって、放置すれば日本人の相互信頼に亀裂が入り、連帯感が解体され、集団知が劣化することになる。

日本人は、特に日本のマスメディアは、党派的な情報操作行為に対して、もっと遥かに厳しい厳罰主義で臨むべきであると思うのだが、いかがだろうか?と同時に、政局の権謀術数で流れる噂や蔭口の類まで、コストをかけて提供するべき重要情報であるかのように、無批判に垂れ流す日本のマスメディアには、その経営方針を一度考え直してほしいものであると思うのだ。

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