2011年8月31日水曜日

予測なき問題指摘は単なるアラ探しである

マスメディアは菅直人氏を首相、野田佳彦氏を新首相と表記しているようだ。それは単なる形式だから何の意味ももたないが、こんな時期になると「党内融和重視は諸刃の剣」であるとか、「薄氷を踏む人事」とか、「主流派にわだかまりを残す」とか、「党内調整は難航が避けられない」等々、政治記者やら、専門家の面々が意見を開陳する。

このように四方八方、タテ・ヨコ・ナナメの視点から、様々な分析を加え、残されている問題点を指摘するのは、それ自体良い事には違いない。しかし、これから始まる事柄について問題を指摘するからには、「◯◯を実行しなければ、高い確率で◯◯になる。そのリスクを避けるには、△△という方策が有効である」という意見になるはずだ。有効な方策を提案できないなら、せめて「このまま放置すると、◯◯のようになるリスクがある」という予測が欠かせないと思うのだ。このくらいの眼力は、(少なくとも)文章でカネをとる商売をして世を過ごしているのであれば、必要不可欠の職業的義務ではあるまいかと思うのだな。

「党内調整は難航が避けられない」というのは、予測に見えるが、これだけでは何の条件も付記されておらず、文意は「必ず党内調整は難航するから、そのまま見てごろうじろ」となる。しかし、記事にはいつ頃までに党内が紛糾するのか明記されていない。だから、今後将来何かの新しい原因で紛糾したとしても、今日時点で「絶対に紛糾します」という見方が正しかったのか、誤りだったのか、検証することは不可能である。

おそらく、新首相が打っている手に落ち度があり、それが原因になって、ありうべき紛争が予測されるとしても、その紛争がいつ頃までに起きて、どの程度まで激化するか。そんな自然科学的予測を政治分野において行うのは不可能だろう。社会科学の精度はそこまで高くはない。というか、一定の予測が確実なものとして全員に共有されるのであれば、それは新しい段階なのであり、予測通りの成り行きによって損失を被る集団が戦略を変更する誘因になる。そして状況が変化する。つまり予測精度の向上それ自体が、予測の的中を突き崩す方向で働いてしまうのだ。それ故に、意志をもった多数の人間集団を対象に、社会科学的な予測をする場合、そこには一定の限界がある。

多種多様な動機で行動する政治家集団の成り行きなど、分かるはずがないのである。分かるとすれば、日本国と世界が置かれている時代と状況を観察して、現在の課題のありかを憶測することだけだろう。時代の進む方向に沿った選択をする政治家は、結果として、受け入れられるはずではないか?政治家が失敗するのは、時代の進展と逆行する場合であり、政治家個人の人柄とか信念は社会の中では何の意味もないからである。少なくともマスメディアという場で、多数の読者に読んでもらう文章を書くのであれば、第一の目的は、何の予測をするわけでもなく、ただ「◯◯であるのが懸念される」とか、「△△となる可能性がある」と書きっぱなしにするのではなく、解決するべきアジェンダを分かりやすく整理し、政治家と国民の問題意識共有に貢献することではあるまいか?

それでも将来の成否は分からないはずである。現時点の特定の政治家の行動など、その人の意志や信念によるし、大体一寸先は闇なのである。分からないことは分からない、と書くべきだ。と同時に、(現時点までの知識とデータから)政治家が果たすべき責任として、これこれの課題がある、と。小生は、そんな風な記事を期待して、購読料を払っているのですね。課題を解決するのに失敗をした、力量が足らない。政権を降りるとすれば、それが理由になるはずで、<マニフェスト>など大震災勃発前の約束ではないか。武士の一言ではあるまいし、家が倒壊すれば、家を建て直すのが先決で、家族旅行の約束は<いずれ必ず果たすから>になるのが当然のロジックである、と小生は考えるのですね。そのロジックの下で、現時点のアジェンダを共有するためのツールとして、日本のマスメディアは是非貢献してもらいたい。

首相が入れ替わるたびに毎度の報道ぶりなので、本日はこんな思いを書き留めておくことになった。

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