2011年6月3日金曜日

学校制度は生き延びられるのか?

今回の内閣不信任案は一場の田舎芝居で終わった。

海外は呆れ果てて見ているようです。被災者の方も怒りと諦めに似た気持ちを持っているようです。残りの日本人の大半は、どんな気持ちで今回の権力闘争をみたのでしょう?権力を奪取しようと企てる人が最後まで登場しなかったので権力闘争とも言えませんが。

小生は、正直なところ、昨秋の尖閣事件への対応以来、現内閣には何の希望も持っておらず、今回野党が提出した不信任案も寧ろ可決され、大騒動になったほうが良かったのではあるまいか。そう思って見ていた。

最後は「近いうちに辞めると言った」、「いやいや、そんなことは約束していない」、「それは嘘ですよ」。そんな極めて低レベルの内紛が、また当分、続く模様になった。一々議論する値打ちもなくなりましたね。

劇場型政治にしても、ほどあいがあります。

× × ×

今日は統計、経済関係でいま話しておくホットイシューがないので、先日、本ブログに投稿した<学校制度>なるものを再びとりあげたい。とはいえ、これは何度も議論しようと思っているテーマなので、今日はまたワンポイントの議論とした。

実は、最近、小生もフェースブックを常用するようになったのだ。アカウントは、何かのはずみで2年前になるか、そのくらい以前に作ったのだが、その後全く使わずに放置しておいた。時折、管理者から友人を紹介しましょうか、というメールが届いてはいたが、赤の他人でもあるし、打っちゃって置いたのである。ロシア人から日本の友人を作りたいとメッセージが届いているが、気の毒にも、放置してしまっている。

今年になって、同じ勤務先の同僚をフェースブックが紹介してきた。その同僚とは大変親しいのだが、フェースブックを使っているとは知らなかった。「へえ、そうなんだ」とメッセージを送った。同僚からは返信はなかったのだが、5月に入って、今度は某学生が私のアカウントを見つけて、友達リクエストを送ってきた。その学生を、私はとてもよく知っている。「いいよ」とすぐに承認した。そうしたら、次々にその学生の友達からリクエストやら、紹介やらが舞い込み始めて、あっという間に数十人に増えてしまった。最初にメッセージを出した同僚からも「いまメッセージが届いているのを知りました」と返信してきた。

こんなフェースブック活用顛末とは別に、かつての教え子の母上が都心部のギャラリーで陶芸展を開いた。その陶芸展に私も行こうと思っていたが、ちょっとした手違いがあって、行けなかった。その埋め合わせというのでは必ずしもないが、フェースブックに陶芸展のパンフレットと場所をアップして、みんなにも案内した。そうしたら多くの人がすぐに反応してくれた。

映画「ソーシャル・ネットワーク」を見たのだが、フェースブックと言っても、正直なところピンと来なかった。しかし、確かにユーザー数が一度増えだすと、燎原の火のように広がるものだねえ。独裁権力者の目線に立てば、こりゃ怖いわ。

私のかつての先輩で大学に転じ、この春で退職した人がいる。その人から、先日、挨拶状が届いたのだが、<フェースブックとオンデマンド授業>でこれからも半ば現役で頑張っていくつもりです、そんなことが書かれてあった。これは私の夢である<フリー・ユニバーシティ>に限りなく近いではないか。近いうちに会いに行こうと思っているところだ。

そうなると、固定した場所に<学校>なる建物を置く必要性はどう考えればいいのか?

その学校に所属する関係者が独占的に所有し、学生という身分の者には、有料で、在学中に限り利用する権利を認め、かつ教育サービスを提供する。う~ん、それより施設はレンタルにして共有施設とする。教育はフェースブックでやりとりをして、必要な時は集まってオフ会をやる。こうすれば、いま学校が果たしている社会的機能の90%は、学校というハードウェアがなくとも、いや学校という拘束的な制度を撤廃した方が、むしろ低コスト・効率的に教育サービスを提供できるのではあるまいか?いま小生は大学が提供している小生の部屋でこの投稿を編集しているのだが、この建物も常時使用率は30%未満ではないか。図書館も然り。教室も然りだ。

どうも今の学校制度、いわば「教育資本ストック」なのであるが、生産資源はそれなりに蓄積されているものの、極めて低い稼働率であり、それ故に低利回りで運用されている。そう思うのである。

義務教育普及のために財政資金を投入し、損得度外視で国家百年の計を練る。そんなプロジェクトを否定するつもりは全くないし、それが有効であった時代もかつて日本にあった。が、もう時代が違う。少なくとも、現実は<学校のための教育予算>を投じて<学校制度存続のための運営>をいかにして展開すればいいか?それを考えている。それは同じお金の使い方としては誠に非効率であると思うのだが、どうだろうか?お金の使い方が非効率だと、増えるお金が増えないし、時にはドブに捨てることにもなり、日本全体がますます貧困になるのである。

効率という言葉は、格差拡大の元凶だと名指しされて、今の日本ではイメージの悪い言葉だが、効率無視のお金の使い方は格差拡大よりももっと悪い、全面的な貧困化を招く結果となる。そう思わざるを得ないのだ。



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