2017年2月26日日曜日

米中対立? 世界史的転換期なのだろうか?

議論は<米中対立>図式に移ってきたようだ。トランプ政権とト大統領をとりまく側近の言動を観察しているうちに、話題が自然にシフトしてきたのだろう。

米中対立の潮流の中で戦略ベクトルを再検討しつつある国は韓国ばかりではない。
昨年、シンガポールのリー・シェンロン首相はジョン・マケイン米上院議員に対し、米国がTPPを離脱すれば「(米国は)アジアでは終わりだ」と述べた。
(出所)WSJ、2017-2-22

軍事戦略と経済戦略は整合的でなければ、利益があったとしても一過的である。


アジア圏に中国的秩序が浸透すれば、韓国の地に「地上配備型ミサイル迎撃システムTHAAD」が配置されるとしても、遠くない時期に"America First"ではなく、"Korea First"を唱える政治家が権力を得て、韓国の政策は転換されるであろう。そうすれば、北朝鮮のミサイルに対する防備なくして自国の軍隊が常駐するのは不合理であるという判断がアメリカにおいても正当となり米軍は韓国から撤退する可能性が高い。

フィリピンは現時点では輸出総額に占める中国の割合は10%程度であり、日本・米国に次ぐ第3位を占めるのみである(ここを参照)。しかし、台湾は付加価値ベースで中国依存率が10%と対米依存率を上回る。韓国は米中それぞれの依存率が拮抗しているが、対米依存率は低下しつつあり、中国への依存率は高まりつつある。

日本も最近時点において、米中それぞれ、経済的関係は依存率という数字で見ればほぼ同等であるのだ。

戦略的互恵システムとしてのTPPは、やはり米国の国家戦略として、一つの有力な選択肢であったことは否定できまい。


こんなことは近い将来において起こりそうもないが、フィリピンと中国の関係が深まり、安全保障面においてもアメリカとの関係が見直されることになれば、それは日米安保体制の終焉を意味するかもしれない。

そうなれば、中国の覇権はハワイまで東進し、仮にそうなれば、最終的にはアメリカの力は本土まで後退する―合衆国に含まれる州が50から49になる。

一つの可能性だろう。

いやいや、そんなことはないと言われそうだが、世界史をみると洋の東西を問わず、どんな大勢力も続いた所でせいぜい400年が一つの目安である。勢力圏の膨張や縮小は、これまでにも常にあったことだ。

英国にも「失地王・ジョン」がいた。ローマ帝国が最大版図を誇ったのは西ローマ帝国滅亡の350年も前、トラヤヌス帝の時代である。黄金時代である五賢帝時代は唐突に終了し、以後100年近くの混迷が続いた。

ま、こんな世界史的変化を小生が目にすることは絶対ない(と思う)。愚息が生きている時代にも起こらないだろう。

衰退は100年単位で進む現象だ。

衰退の時代の始まりは、ずっと後になってわかるものだ。しかし、衰退すればどうなるかは、実際に衰退する以前においてある程度予測はできているはずだ。

2017年2月23日木曜日

酒びんの美しさ: 多様性の中の統一感

居酒屋のカウンターに座って、背後に並んでいる清酒や焼酎の瓶の列をみると、呑み助には楽しいものであるし、と同時に並んだ酒瓶の列から美しさを感じることもある。「ああ、日本だねえ・・・」と、そんな感覚だ、な。外をみるとまた綿のような雪が斑々と降りはじめ、窓から漏れる灯が積もった雪を暖かく照らしている。そんな夜なら最高である。

フランス・ワインも瓶の形をみれば産地が憶測できることがあり、ラベルをみればどこの醸造元であるかが正確にわかる(ことになっている)。故に、保存状況がよければ、開けなくとも外から見るだけで、ある程度は中味の想像がつく(ようなシステムにしている)。


最近は肥満防止のため蒸留酒のほうがいいと思い、宅で飲む頻度も増えているのだが、いつの間にかウイスキーが自己増殖してしまった。

飲みたいときに直ぐに選べるようにキッチンのカウンターに並べ始めたのだが、これが案に相違して美しい。


ウイスキーは瓶の形、色、ラベルの形状とも、みなマチマチである。ラベルに漢字が混ざっていても異和感がない。しっくりと馴染んでいる。並べてみると全体に形容しがたい統一感が醸し出されて、観るのが楽しい……、開栓した後は早めに飲み切った方がいいので、あまり何本もは無理なのだが。ポールジローのブランデーを間に挟んでみると、これまた以外に仲間外れ感が出てくる。銘柄は違ってもウイスキー全体に共通している美の感性がある。

「文化」というものなのだろうねえ。ただ、カミさんが「ホームバーじゃあるまいし、これ以上は並べんといてね」とクレームをつけているのが残念だ。

清酒や焼酎をグローバル・ブランドにするなら、日本文化に共通している美の意識が瓶の形やラベルのデザインに表れていることが大事じゃあないか。と同時に、蔵元それぞれが自由にデザインできるようにもしておくべきだろう。産地証明とトレーサビリティ、食の安全から規制するお上の指導と、「日本文化のマーケティング戦略」が矛盾しているなら、直した方がいい。


2017年2月22日水曜日

「人工知能」知財の意外な事実

間違った思い込みを修正してくれるデータは最も有難いものだ。文字通り『知識は力なり』。この格言は担当している統計分析の授業でも何度口にしたかわからない。

意外な事実:

Top Holders of Artificial Intelligence Patents

フェースブックの投稿をそのまま引用したのだが、それにしても"FNDtek"という会社はどの位の実力を持っているのか・・・ホームページを見ると、どうやらレンタルサーバー+コンサルタントサービス+ソフトウェア開発でやっているようにみえるが、料金表もそれほど高額ではなく、ちょっと得体がしれない。業界事情には精通していないので、ひょっとすると知られている会社かもしれないし、そうでないかもしれない。

それにしても、「人工知能」とくれば戦略商品"Watson"を有しているIBMの一人勝ち、もしくはGoogleかFacebook辺りが上位を占めると思い込んでいたが、何とトップが日本の富士通とはねえ・・・そして、NECが三位ですか。

確かにNECは大型集客施設の群衆画像解析システムが海外で評価されているとか、最近はこの分野で聞くときもあるが、富士通がこれほどAI分野で知財を保有していたとは知らなんだ。これから何を売るのだろうと思っていたが、結構リソースはあるらしい。20代の頃からずっとFACOMを使ってきたユーザーとしては、というより小生の父が初めて「電子計算機研修」を受けた機種がFACOMだったので、富士通の名をこうしたところで見るのはやはり嬉しい。

GoogleもFBも見当たらんねえ…Microsoftは"Cortana"のことか…、いやいやもっと巨大なスケールでやっているらしい。日本でもMS-Japanが色々と活動している報道はある。
人工知能をFX取引のカスタマーサービスに 日本MSなど
「カード不正利用」の検知精度、深層学習で劇的向上

ただ、どうなのだろう。ビジネス現場ではとにかく「できる人」が足らないらしい。
(前略)
文部科学省の科学技術白書(2016年版)によると、統計学や機械学習などのデータ分析の訓練を受けた大学卒業生の数は、1年間に米国が2万4730人(世界第1位)なのに対し、日本は3400人(同11位)で大きく水をあけられている。 
 日本の7倍の卒業生を誇る米国だが、米コンサルタント会社マッキンゼー・アンド・カンパニーは、18年までに14万~19万人が不足すると試算している。

(出所)日本経済新聞、2017年2月17日

人工知能、データサイエンス分野の人材面におけるトップ3はアメリカ・中国・インドである。時代の潮流に沿った研究に従事している人間が多いということなのだろう。その分、競争は激しく、学界の進歩も速いが、人を驚かせるような抜きんでた結果を得るのは至難のはずだ。

人工知能を今さら研究してもノーベル賞にはつながらないかもしれないが、それは1903年にレシプロ・エンジンを搭載した飛行機を最初に飛ばした米人・ライト兄弟、自動車大衆化の時代を切り開いたヘンリー・フォード、最初の合成繊維ナイロンを開発したカロザース、レーダーの基礎技術となった「八木アンテナ」を発明した八木秀次・宇田新太郎、どの人物もノーベル賞を受賞しなかったことと同じ意味合いに思われる。

ノーベル賞にはつながらず学者最高の名誉とは無縁かもしれないが、豊かな社会を実現するために欠かせない研究もあるというものだ。

2017年2月14日火曜日

徒然なるままに: 宗教・反日・契約

中近東地域で過激化しているイスラム教内スンニ派とシーア派の抗争は、もしマルクスならば、その根底に経済問題があると喝破したのだろう。

そうではなく歴史的・民族的敵対関係が根本にあると見る立場もあるかもしれない。純粋に宗教上の原理における敵対関係が現代にまで継承されているのかもしれない。

いずれにしても「経済問題」だけで、つまりカネや仕事の問題だけで、人は自分の行動を決めるわけではない。

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話題はまったく違うが、韓国の"Anti-Japanism"のことだ。

日本側の報道でもそうだが、現地に赴任する第三国出身者も反日の熱には時に驚くそうである。

が、これは当然の論理だろう。第二次大戦後の「ポスト日帝体制」を基準にすれば、1910年から45年までの旧体制は、李朝朝鮮から高麗王朝を見る立場と相似の関係にある。高麗残党を粛清した動機と「親日派」を抹殺した動機は本質的には同じであるだろう。だとすれば、現代韓国社会・主流派の「反日」は「親日=旧体制の残党=反逆分子」という方程式を使うための大前提となる。その時々において人は変わるものの、攻撃する側が相手を「親日」と呼び、自らを「反日」と位置づけるのは、徳川幕府草創期に社会不安をもたらす反逆者(=単なる不平分子)を「豊臣の残党」と呼んで、有無を言わせず抹殺したことと、どこが本質的に違うだろう。

が、振り返るとずっと昔、日本も同じような状況だった。

80年代バブルの前までは日本にも「戦前は悪・戦後は善」という大括りにした観念があったように思う。この点だけをみれば、朝鮮半島にいる人たちと理念的立場が大きく違うようなことはなかったように記憶している。

90年代のバブル崩壊と金融パニック、中央官庁の相次ぐ不祥事と護送船団行政の崩壊、中央省庁再編成、その後の「保守本流」の退潮などを経て、社会的な心理や理念が大きく変化してきたのは、(中国も韓国も大きな社会的変化を遂げたのは同じだろうが)むしろ日本の側である、と。そう思うようになった。

ある意味で「戦後政治の総決算」は成し遂げられたのだろう。

この大きな変化を日本の「ポスト戦後体制への進化」と呼べばいいのか、「保守化」と呼べばいいのか、まだ明らかではないような気がするが、近隣諸国からみると日本の「保守反動」のようにも見える。そんな気がしないではない。

が、どちらにしても「戦前は悪」という理念が、現在の日本社会でどの程度まで共有され、潜在意識として織り込まれているか、定かではなくなっているのは確かだろう。

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某若手女性タレントが「幸福の科学」に入信するというので世間を騒がせている。ある人は、積み重ねてきた人間関係や契約関係をすべて無視して、自分一人の「信仰」を押し通すのは無責任で勝手だと、怒りの気持ちを否定できないようだ。いや、まったく合理的で常識的な意見である。

宗教は、しかし、激発すれば戦争をも辞さないほどのエネルギーをもつ。たかがカネの絡んだ契約なら尚更だ。

徳川家康の謀臣・本多正信は、若い頃の一時期、浄土真宗の信仰心から家康に反旗を翻し、一向一揆の衆徒の群れに混じり、主君・家康を崖っぷちまで追い詰めたそうである。その後の流浪の果てに、家康の下に帰参が許されたのは、事後的には実に合理的な判断だった。

イスラム教の誕生はビザンチン帝国による不適切な宗教政策が招いたのは事実である(とされている)。

現代社会においても、依然として「宗教」が人間社会の大きなテーマであることに変わりはない。日本でそうなっていないのは、徳川幕府の対仏教政策が稀なほどの成功をおさめたからだ。それでも「信仰」がマグマのような熱をもっていることは常に念頭に置かなければならない。そう思うのだ、な。

2017年2月12日日曜日

メモ: 偽善・フェイクニュース・民主主義のいま

日本の安倍首相と米国のトランプ大統領との泊りがけの交流もどうやら大過なく済んだようで(特に日本側では)安堵したような社会的雰囲気があるようだ。

そんな雰囲気はマスメディアから伝わってくるしか一般国民は知る由もないのだが、ではマスメディアはどうやって確定性の高い情報を入手しているのだろうか?この点を聞かれれば、小生だって「さあなあ・・・」と言わざるを得ない。おそらく『公式』の文書なり、陪席していた人と接触可能な人物から直接聞いた言葉がさらに伝わってくるとか、そんなあたりだろう。

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話は変わるが、文部科学省による「組織ぐるみ天下り斡旋事件」。ついに出てくるべき論評が世間に出てきている。
文部科学省での組織ぐるみの天下りの「発覚」を大きく報じる大手メディアにも違和感がある。今さら新事実のように書かれても、私には「そんなこと以前から知っていたではないか」と、感じられて仕方がないからである。
 今回の事件の発端は、高等教育局長が退任2カ月後、早稲田大の教授に再就職したことにあるという。しかし私のまわりをみても数年前、同じポストにいた人物が私立大の学長になって定年前に退職したし、このような類いの再就職は特に隠れてなされているわけでもない。文科省の記者クラブに所属して幹部職員と日頃接している記者たちが、こうした情報を知らなかったはずはないだろう。
 それを「在職中の求職活動が横行していた可能性がある」(1月23日付産経)などと、まるで初めて知る事実のように報ずるのはどうかと思うのだ。同20日付産経の「主張」は「教育をつかさどる官庁として恥を知るべきだ」と書いているが、この「官庁」に実質上は記者クラブも含まれているのではないかとまで思う。結局のところ、取材する側と取材される役人側とのなれ合いを強く感じるのである。記事は空々しく、今さらの一方的な批判も偽善めいていて心に響かないのだが、一般読者の方々はどう感じているのであろうか。
(出所)産経ニュース、2017年2月12日『新聞に喝!』 

「偽善」という言葉は本ブログにも頻出する言葉だ。そして偽善の増加は民主主義の退廃と表裏一体であると、小生は信じ込んでいるのだ、な。その偽善は、嫉妬が混じった正義の感情からにじみ出るものだとも考えている。

先日も投稿したように、「正しい」という規範を小生はあまり信じられないのだ。

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それにしても、昨今のマスメディア従事者の学力の衰えは実に目に余るものがある。

先日は、誰でも名前を知っている某ニュースキャスターが『プラザ合意で一転して円安になりましたね』とか(小生の聞き間違いかと思ったくらいだが)、「遡る」を「たどる」と読んだり、まあ特にTVというニュースメディアは時間との勝負なので間違っていたら後で謝ればいいと思っているのだろうが、とにかく基礎学力に不安を感じさせるような場面が増えてきた。現場で仕事をしている人たちは、毎月何冊くらいの本を読んで最新知識を補充しているのだろうか。

新聞社の方は大丈夫なのだろうか。考えてみれば、4年制大学の文系学部を出ただけで、あとは現場で勉強しながら記事を書いているのだろうと思われる。そもそも技術革新が加速し、国際関係も複雑化している政治・ビジネス・産業について何かの洞察を持てているのだろうか。報道対象をまともに理解できているのだろうかと不安に感じることは多い。

マスメディアにしろSNSにしろ、入手できる情報の半分はノイズで、全く内容空虚な伝聞、悪く言えば流言飛語であると思っておけば自分は安全なのだろうが、社会的にはエンプティな情報が実質的な影響を与えることがある。昨秋の米大統領選挙はその典型であった。

情報のフィルタリング・サービスを高精度で実行できる"Social Artificial Intelligence"が導入され、それらがネットワーク経由で統合され、接続される時代が到来するまでは、フェイク情報は容易に踊らされ、影響されやすい人間が判定せざるをえない。

国民の大半が無気力で政治に無関心な国なら何の問題もないだろうが、多くの国にとっては極めて危険な時代がやってきたものだ。

2017年2月9日木曜日

成功とは志・不誠実・勝負の3元素からなるようだ

石原元都知事が豊洲問題で聴聞に応じるというので、現時点で主役を演じている小池都知事を相手に、またまた劇場型政治が盛り上がることになりそうだ。

ま、どちらが優勢となるにせよ、国政では大した結果を残せなかった志も野心もある政治家が、「これではジリ貧だ」と、そう思って地方行政を舞台に選んで、何か大向こうを唸らせるようなテーマを探し出して勝負をかける、と。そんな風に歩んできた/歩もうとしている二人の勝負師の立ち回りだ、と。そうみれば、小池・佐々木小次郎が石原・伊藤一刀斎に勝負を挑んでいるのと大した違いはないねえ。

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小生の父親は、前にも投稿したことだが、ビジネス戦争の中で鬱病を患い寿命を縮めた人である。そんな父を約10年の間看病した母は(一言で言えば)傷痍軍人の妻のような人生を歩んだのだと今にして思うことがある。

カミさんの父は法学部在学中に学徒動員で中国戦線に送られたが、奇跡的に生還した人だった。戦後は、しかし、隠れ住むように四国・松山で家庭を守り、比較的若い年齢で職場の庭球試合をプレー中に発作を起こして急逝した。戦死を免れたものの、やはりビジネスの中で討ち死を遂げたとみれば、カミさんの母は戦争未亡人と似た立場にあったことになろうか。

どちらの女性も夫を見送って間もなく自らの人生を閉じることになったのは今なお不憫の念に耐えない。

しかし、多分、不幸ではなかったのだろうなあ、と。なんとなくそんな想像もするのだ。自分を実体よりも大きく見せたいと願う誇大妄想もなく、浮かれた世間の中で実に誠実に生きた。そんな人であれば、外観はどうであれ、内実は幸福に恵まれていたに違いない。そう思うのだな。

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南スーダンでいわゆる「武力衝突」があったそうだ。現地の自衛隊は日誌に「戦闘」と記載してあったという。

戦闘といえば憲法違反になる可能性が高い。だから、起こったことは武力衝突である。稲田防衛相は国会でそう答弁しているという報道だ。

多分、こんなやりとりが増えるだろうとは最初から分かっていたことだ。この件については何度も投稿しているが、いま最も当てはまるのはこれか。

現役の軍人がそう丸め込もうと苦心しているならまだ理解できるが、文官の(だからどうというわけではないが)女性の担当大臣が屁理屈のような言葉の遊戯を立法府で述べるとは、これ「不誠実」の典型だろう。

野心と志をもっているが故に高潔に生きているというロジックはない。不誠実と欺瞞を繰り広げるモチベーションもまた志と野心である。

やはり「仕事」の場にあるのは「勝ち」と「負け」であって、幸福はそこにはないようだ。




2017年2月5日日曜日

メモ:「正しいかどうか」は無意味な話題ではないか

トランプ大統領が酉年の酉(トリ)よろしく相次いで繰り出す大統領令にも司法の判断が下されつつあって、状況は混迷の様相を呈してきた。

そこで議論されている、というか報道されている文章を読むと「この大統領令は正しくない」という意見が多い。

そもそも「正しい」とはどういうことなのだろうか、と。小生、昔から「正しい」という言葉が人の口から出ると、どことなく反発を感じていたものだ。何しろ極端なへそ曲りであることは、何度も断っている。

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世の中で意見が分かれることは多々あるが、それが真理であるか否かという判断は比較的易しい。

数学的定理はロジカルに証明されているし、まだ証明されていないなら「予想」と呼ばれ、真偽が定まっていないー多分、真理だろうというので「予想」なのであるが。

実験や治験でエビデンスを挙げてもよい。もちろん反証が出てくれば真理ではない。

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美しいかどうかは真理かどうかより明らかではない。が、観れば(聴けば)分かるという点では、(人によって判定は分かれるが)むしろシンプルな問題だ。

それが善いことであるかも判断の観点さえ明らかにされていればそれほど難しい問題ではないのではないか。

カントは、最高の善は「善意志」にあると考えた。善を求める人の意志こそ最高の善なのだというわけだ。そして、何が善であるかどうかは、社会的な慣習ではなく、人間が生まれながらに持っている「実践理性」にきけば分かると議論した。文字通りに超越的・形而上学的だが、『曲がりなりにも人であれば、善いことかどうかは分かっているはずだ』というのは、限りなく孟子の人間性善説に近いとも思う。まあ、現代では既に古くなっている思想でもあるだろう。

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そういえば、数日前のTVで報じられていたが、生後半年の乳児にも既に何が正義であるかかが分かっている。そんな結果が実験心理学で得られたという。その実験は、動画でイジメを見て逃げる人と、いじめられている人を助ける人と、どちらを好むかという選択をさせるものだった。結果は英誌"Nature"に掲載されるらしい。

TVでは「正しいかどうかは乳児もわかっている」と話していたが、正しいかどうかではなく、善い行動かどうかであろうと思う。

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小生がいつも感じるのは、「それは正しい」と人がいうとき、単に「私はそれが好きだ」とその人は言っているだけだということだ。

大体、人というのは自分が好きなことをやりたいものであって、やりたいことは正しいことだと考えたいものだ。

それが好きだと感じる人が社会の半分以上を占めるとき、その社会では「それが正しい」になる。要するに、それだけのことではないか。

好きか嫌いかに意味がないなら、正しいか正しくないかにも意味はない。

それは正しいというとき、理にかなっていると言いたいのか、善いことであるのか、それとも「美談」というか行動として美しいと言いたいのか、何を主張したいのかを明らかに述べることが必要だ。

「それは正しくない」というときも、「自分はそれが嫌いだ」、「そんなことはしたくない」という主張を超える実質を話すべきだろう。