2024年5月21日火曜日

断想: 強い権力は消滅する方が暮らしやすい

よろず権力には巻かれざるを得ない。だから、権力は弱い方が居心地が良い。

人によっては、外国が攻めてきたらどうすると言いそうだが、心配はご無用だ。

いま日本には米軍がいるが、いつまでいるかは世界史の論理に従うだろう。万が一、中国軍が来るとしても、いつかはいなくなるだろう。どこか外国のために日本人が先鋒になって戦うほど馬鹿々々しい事はない。それが日本が日本であることの意味である。

何ごとであれ、「上」と呼ばれるものは邪魔なものである。

俗に「上から目線」という表現がある。

小生が青少年であった頃は、こんな言葉はなかったのだが、なかったからこそ「上意下達」とか「ド根性」、「石の上にも三年」とか、合理的指導とはかけ離れた言葉が使われていたのだと思う。

「強い権力」があると普通の人は息が詰まるものだ。

「強い権力」は出来れば消えてほしい。

よほどの君主制支持者でなければ、こう考えるのではないだろうか?

そもそも日本社会は、古来、絶対君主の登場を歓迎しない傾向がある。天皇は関白の助言を受け、明治以降は内閣や参謀組織の輔弼の下にあった。将軍の側には大老、老中、側用人がいた。

強い権力を否定する原理の根底には、強い支配力の否定と社会自然のメカニズムへの信頼があるもので、この思想が経済分野に向けられると独禁政策と競争環境の維持という基本政策につながってくる。

政治に向けられると、当然、複数政党の競争と有権者による選択という政治システムになり、今はこのようなシステムを「民主主義」と呼んでいるわけだ。

ところが、日本では《自民党総裁=総理大臣》という実質的な一党独裁が、なぜか短い例外的期間を除けば、ずっと続いているわけだ。

もっと奇妙なのは、日本人自らが、こんな状態を非民主的状態とは痛切に感じず、むしろ日本社会の安定性として評価し、受け入れているところである ― だからこそ、不祥事が発生すると、政治が信頼できなくなったとつぶやきつつ、選挙を棄権するという、国際基準からは逆パターンの行動を示したりする、どうもそう思われるのだ、な。

為政者が無能なら、斜に構えて

イヤな世の中よのう・・・

と、ふて寝をするわけだ。実に、非民主主義的である。おそらく、有能な君主による独裁でないという点だけは、それはそれでイイ、と。そんな感性があるのだろう。

少し前に、こんな事を投稿した:

実は、久しぶりに宏池会出身の総理大臣が現れることになった2021年の9月末、こんなことを投稿している:

ところが、宏池会から首相が輩出されるというのは、あまり縁起のよいことでもないのだ、な。

そもそも宏池会の創設者である池田勇人・元首相が、首相在任中に癌を発病し、任期を残して退陣、その後一年も経たないうちに逝去している。

その後、宏池会に縁のある政治家が自民党総裁になったのは複数回あるが、(例外とも言える一人を除いて)いずれも自民党にとっては悲劇的な状況を招いている。

今回、岸田首相によって宏池会そのものが解散されるに至った。これが自民党という政党とそれが代表してきた「保守政治」を、どう変化させていくのか、現時点で見通すことはできない。

どうも何だか、宏池会の縁起の悪さが現実のものとなりつつあるようで・・・と感じるのは小生だけだろうか?

前にも書いたことだが:

 本当の所は、自民党が二つに分裂するのが、日本人にとっては政治的選択肢を増やすという意味で、最もハッピーな帰結なのだろうと思う。個人的には、それを熱望している。

ますます、この願望は強まっている。と同時に、なぜそうならないのかと言えば、同じ投稿で書いているように:

元々は細かな些事で内容希薄なミステークが(誰かによって)利用され、デマとなって、まことしやかに、あるいは「犯罪」にフレームアップされて拡大され、メディアと有権者が政界スキャンダル報道に踊るという構図は、現在時点の日本だけではなく、遠い昔、普通選挙実施後の日本の社会そのものでもあったわけで、全ての日本人が参政権をもつ民主主義社会の実現に戦前期・日本は見事に失敗したのである。

これが戦前期・日本のデモクラシー発展史の最終到達点であり、この失敗のトラウマは現時点の自民党政治家たちにも、おそらく、共有された社会観として受け継がれているのではないだろうか?

最近もまた、上川陽子外相の舌禍が以下のように報道された:

この方を私たち女性がうまずして何が女性でしょうか

こういう典型的な「切り取り」と「フレームアップ」は、ほとんど「捏造」と言うべき報道なのであるが、踊る世間の軽薄さがメディア・ビジネスに利用されているわけでもある。

こういう世間を観察しながら絶望をしているのが日本の政治家だとすれば、

政治に絶望する日本人と、日本の世間に絶望する日本の政治家と。この二つは鶏と卵の関係にある。

こう考えてもよいようで。

メディアは「第4の権力」だ ― ネット空間も侮れない。

そのメディアが日本人の言葉づかいを監視しては「不適切」だと攻撃している。

「言葉使い」の窮屈さが、表現の自由を根本から侵しているという事実認識を語るメディアが現れてもいい。にも拘らず、現れないのは何故か?

ワイドショーでは、放送側の主張に沿うように言葉を切り取っては、

なぜそんな言葉を使うかと言えば、そういうホンネが隠れているからですヨ

などと、内心のあり方にまで踏み込んで批判している。まるで、中世ヨーロッパのローマ法王が、観察可能な行為だけではなく、内心の信仰のあり方にまで立ち入って評価するようなものだ。たかが法人であるテレビ局に人の内心を云々する権限があるのだろうかネエ・・・一般公衆にプロパガンダしてくれと誰が頼みましたか、許可しましたかと、疑問がたえませぬ。ゆゆしき状態ではありませぬか、と。

つまるところ、異論を唱える異質な分子を「風を読まない」と言って排除しようとする日本社会の特性に原因がある。

多様性に価値があると強調しながら、ある価値を押し付ける。その他を排除する。

排除できるほどの影響力をもつ言論機関が日本にはある。

言論空間であっても「支配的地位」を占める機関があれば暮らしづらい。

「強い権力」は消滅する方が暮らしやすい。

広大な英語空間には言論界を支配するほどの寡占メディアはない。新聞、テレビを世界規模で支配する巨大資本もない。

それに英語空間には多様な多民族が暮らしている。価値観も色々だ。だから、A局がああ言えば、B紙はそれに反対して批判する。

もし移民政策を整備拡大して、移民系日本人が10パーセントを超えれば、多分その辺りから日本社会も目に見えて変化していく可能性が高い。

前にも書いたが、早くそんな時代が来てほしい。

その代わり、多様性が行き過ぎて、日本社会の絆や凝集性が弱体化するかもしれないが、何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」で、現代日本社会は余りに窮屈だろうと感じるのだ、な。

移民受け入れ政策は、(教育制度と併せて?)日本という国の将来を決める決定的な要因と思われる。それには、政治的にも経済的にも、自由な選択肢が常に提供されるようなシステムにしておくことだ。

2024年5月19日日曜日

ホンノ一言: この提案には全面的に賛成したい

旅行から帰ってきて最初に目に入った記事がこれだ(一部抜粋):

具体的に国家のプロフィットセンター、つまり投資部門とは

  • 教育レベルを上げる(明治維新の成功)
  • 理系の大学研究費の増額(いまはまともに研究もできない)
  • 新技術の開発(核融合など)
  • IT化、キャッシュレス化
  • 海外から集客できる国家事業(万博、五輪、ワールドカップなど)
  • 必要なインフラ(リニア、羽田の大規模拡充)※使わない空港とか箱ものなどの不要なインフラはコストにしかならん
  • 起業の推進

などであるが、こうした費用はここ20年大きく削られて国の投資が激減しているわけでこれで景気が良くなるわけがない。アメリカは世界一の軍事開発や石油に変わるシュールガスを開発して産油国に復活するなどしてるではないか。反面、日本は原発を10年以上止めてその技術も相当に失われている。

要するに、国全体のコストセンターとプロフィットセンターを巨視的視点から的確に認識して、成長(=未来)にとって最適な戦略を構築すべし、そして明るい未来をイメージすべし、こういう至極真っ当な指摘をしている。

小生も100パーセント賛成である。

政府がアクセルを吹かさずとも、規制緩和(と独占禁止政策)を徹底して「マーケット・エコノミー」に任せておけば、「小さな政府」になってコストセンターを圧縮できるし、グリーンスパンも強調していたが、それだけで大なり小なり、曲がりなりにもマクロ経済はうまく行くものだが、この点はまた別の機会に。


格差是正、貧困撲滅、少子化脱却など、最近流行の目的が一切入っていない所に、物事の本質を洞察する知性がある。

例えて言うと、ボーリングが上手になるには最終目的である10本のピンを見ていても駄目である。大事なのは、ステップとスイング。それからターゲットピンに意識と目線をフォーカスすることだ。

格差是正は出来れば理想的だ。少子化脱却も出来れば理想的だ。しかし、これらは社会現象の最終的結果であり、政府の政策調整でダイレクト・コントロールが出来るわけではない。というか、コントロールするための政策に踏み切ると、予期できないハレーションを引き起こし、激しい社会変動をもたらすはずだ。

戦略的政策には適切な目的設定が不可欠だ。この辺のメリハリある考察が上の提案には滲み出ているのだ、な。

ちなみに引用させて頂いたブログ著者は小生が愛読する一人である。


実は、この次の下りには笑ってしまった:

いま必要な政治家は政治のプロでは無く、経営経験のある人材であり、高齢議員はとっとと退いて貰って、投資センスのある若い政治家に日本を任せるのなら国債発行なんぼのもんじゃいなのである。

現在、国会で議席を占めている議員達だが、「政治のプロ」と言えるほどの人物がどれほどいるのだろうか?

大半は、「政治のプロ」ではなく、「選挙のプロ」である。選挙のプロは、当選すること自体を目的とする。議員の秘書は当選作戦を練り上げる参謀だ。東大に合格させること自体を目的とする受験予備校と、候補者を当選させること自体を目的とする現代日本の政党は、組織理念がよく似ているのだ、な。東大合格者を増やすことと、国政(と地方)選挙当選者を増やすことと、とても似ているでしょう?数が増えれば組織は発展するわけだ。

見事当選してから以後の政治活動など、小生の地元選挙区から選出された議員ですら、全く聞いたことがない。「自己評価レポート」くらいは毎年提出してほしいくらいだ ― おそらくこれも秘書がレポートを作成するのだろうが。

何をしたくてそれを目指すのか?ここが極めて希薄である人物が大半なのだろう。

いわゆる「制度疲労」が目立つ情況というのは、こうした情況に他ならない。 

医者としての仕事に没頭するより医師国家試験に合格すること自体を目的として頑張る御仁がいる。裁判官、検察官、弁護士のどれでもよい、ただただ法曹資格を得たいがため司法試験をうける御仁もいる。

人の行動を批判するつもりなどサラサラないが、

動機薄弱な人物が合格者の大半を占めると、その制度の目的達成が遠のく

これだけは言えるわけだ、な。

上に引用したブログ著者が、日本の「政治家?」をみる目線は、まだまだ暖かい。

2024年5月18日土曜日

初瀬参りをしてから

カミさんと二人で京都、奈良へ行ってきた。どこに泊まるか迷ったが、泊ったのは奈良だ。奈良の方が京都より混雑していないし、宿泊費も相対的に安価である。食の楽しみも、知られていない様で、実はレベルが高い。地酒も、これも知られていないが、美味である。小生たちが泊ったのは昔からある猿沢の池近くのホテルだが、ロビーに人が溢れたり、エレベーターが満員でやり過ごすなどということは、朝夕一度もなかった。


今回の主目的の一つは長谷参りで、もう一つは知恩院で数珠を買う事だった。

着いたのは夕方で翌日が実質第1日なのだが、そこに長谷寺を持ってきたのはオーバーワーク気味で普段は歩かないカミさんが「足が痛い、足が痛い」と言い出した。




長谷寺は399段の「登廊」で有名だが、単調な登りが続く階段は確かにハードだ。そのハードさも桜、牡丹、紫陽花をみれば癒されたのだろうが、牡丹には遅く、紫陽花には早い参詣になったのが残念だ。

初瀬まゐり なごりの牡丹 たづねつつ 
紫陽花を みるにはまだし 長谷の寺


知恩院に行ったのは次の日である。 足に来たカミさんは知恩院三門前の石階も辛い様子だ。

初夏や 祇園をとほり 円山に

宇治の平等院を久しぶりに観てから奈良へ帰った。


いわきに住む弟と旅をしてから何年たっただろうか。その日は雨で、水嵩の増した宇治川の川辺を水音を聞きながら歩いていると、小生と弟とどちらが言ったのか忘れてしまったのだが、「アッ、翡翠だ!」と二人で驚いたのを覚えている。


 宇治川の 川音きけば いまは昔

    はらからと歩みし 旅をしぞ思ふ 


最後の日は、西ノ京にいって、唐招提寺、薬師寺からも御朱印をもらう。唐招提寺は変わらぬ。薬師寺は変貌した。変わる薬師寺と変わらぬ唐招提寺と。どちらが善いのか、小生には判断できかねる。しかし、小生は三重の東塔だけがあった昔の薬師寺が好きだ。

奈良駅に戻ってから、餅飯殿商店街に入り、ならまち界隈を散策した。



それから、とある小店に入り薬膳料理と茶がゆを食した。

ならまちに 初夏のきて 茶がゆかな

奈良駅まで歩き、地酒「百楽門」を二本、「八咫烏」を一本、「金鼓」を一本、宅宛てに送り、リムジンバスで伊丹空港に戻る。

北海道に帰ると激しい雨だった。高速を走っていると篠つくような豪雨になり、「なんでこうなるンだろうな」と愚痴りながら、それでも飛ばしていると、札幌を過ぎる辺りから小雨になったのでたすかった。



2024年5月9日木曜日

「子持ち様」という新語についての感想

 TVのワイドショーで<子持ち様>という新語が、最近、愛用されるようになった。

どの程度の現実的裏付けがあることなのか、現在時点の職場の現状については、段々と疎くなっているので、小生にはどうも実感がわかない。

ただ職場で「子持ち様」という言葉をそれなりの数の人たちが使う心理の根底には、

子育てという私事を職場に持ち込まないで。迷惑なンだけど・・・

と。こんな(他人に迷惑をかけない?)「専業主婦世帯」を標準とする、といった風な価値観も窺われる気がする。

しかし、こういう価値観はもう歴史的役割を終えた。そういうことだと(個人的には)観ているし、実際にもそうなる。

言うまでもないが、小生が仕事をしてきた環境では、「子持ち様」という単語は存在しなかった。「同棲」はともかく、婚姻届けを提出した夫婦に子供がいない状況は、極く極く少数で、核家族であれ、大家族であれ、結婚すれば子供が生まれるというのが社会常識であった。婚姻率は高く、年齢も今に比べるとずっと若かった。こんな社会状況で「子持ち様」という言葉が使われるはずはなかったのだ。

そもそも「子育て支援」なる概念が、「身内」ならいざ知らず、社会において形成されてはおらず、まして共有などされるはずがなかった。

「男尊女卑」、「男性社会」と言いたいなら、言わば言え。大正デモクラシーの日本人が江戸時代の切腹を「許されざる残虐な刑罰」と非難しても意味はない。今日の日本人が明治以来の(農村はまた別であったが)男性中心社会、専業主婦と家庭のあり方を非難して、いかに酷い時代であったかと責めてみても、意味はほとんどないのだ。

考えても見たまえ。

洗濯機も、掃除機も、炊飯器もない。エアコンも、電子レンジも、ガスレンジもないのだ。米は竈で炊く。最初チョロチョロ、中パッパだ。焼き魚は七輪を使って炭火で焼く。風呂は薪を燃やしてわかすのだ。風呂番をしないといけない。時代を下った小生の亡くなった母親でも、小生が幼少期の時分は朝から夕方まで家事に時間を費やしていた。夕方には疲れて昼寝をしていたものだ。祖母の時代には、井戸で水を汲む作業まであった。家族の誰かが担う必要があった。と同時に、近代化された社会で農村から都市に移動した家族は、生活の糧を、つまりカネを稼ぐ必要もあった。問題はシンプルだ。多くの家族は似たようなパターンで問題解決をした。バカでもなければ、同じ環境下で、人は似たような選択をするものなのだ。

何度も投稿しているが、社会の習慣や価値観、理念という上部構造は、生産という下部構造によって規定されるものだというマルクスの社会科学を、この点では信奉する立場に小生はいる。価値観や倫理が社会を決めるのではない。

基本的には似ている平均的な庶民が、毎日の暮らしの必要に迫られて自ら選ぶ生活のあり様は、自然に似てくる。それが社会の大勢となり、支配的な生活様式、つまり標準モデルになる。すると今度は、そんな暮らし方や生き方は「正しい」とする道徳や倫理が形成される。道徳はやがて美意識となり、その意識に適った美談が生まれてくる。そして、社会は安定し、長く続くことから、国民は広く一定の気風(エートス)を持つに至る。人々は特徴あるマナーを重んじ、他の時代や他の国民と差別化された言動を表す。


〽妻をめとらば 才たけてエ~

〽みめうるわしく 情けありイ~

〽友を選ばば 書を読みてエ~

〽六分の侠気 四分の熱~

詠う人はもう少ないだろう。しかし、ある時代においては、この「人を恋うる歌」が広く愛唱された。自らの生に正しさを感じ、やがて善いという信念になり、美しいと感じる自意識が出来あがれば、歌が生まれ、詩になり、その時代の趣味に沿った芸術が生まれる。黒澤明の映画『生きる』を観たことはあるか。これが文明なのだろう。

しかし、上のような時代は過去になった。知識人が「それは間違っている」と考えたからではない。世界の変化、生活環境の変化が別の暮らし方を迫るからである。(実は)こんな事は誰でも分かっている。口先上手な人がいくら独りで弁舌を尽くしても、大衆は聞き流し、それで社会が変わることはない。この意味で、理念や価値観は結果であって原因ではない。


一つの時代に専業主婦世帯が多数を占め、それが標準となった。それに対して、専業主婦は女性の就業意欲を抑圧していた「悪習」であったと、現代人がいま批判する。

それは今だから言えることでしょう

この一言で終わる。歴史を語るにはリアリティを共有する感覚が不可欠なのである。

そして、マルクス派経済学者なら、こうも付け加えるはずだ。

社会は常に「歴史性」という制約をもっています。だから「〇〇時代」が形成されるのです。いまあなたが言う専業主婦モデル批判こそ、弁証法で言うアンチテーゼです。アンチテーゼが提起されることで、社会の矛盾がアウフヘーベンされる契機が生まれ、初めて歴史は発展できるのです。

つまり従来モデルへの批判を超えるジンテーゼたる新モデルを提案しなければならないわけだ。

それには、マルクスが『経済学批判』を超えて著した『資本論』に対応するような現代日本の社会理論が出て来なければ、結局のところ、出来ることだけをやり続けて、最後にはスパゲッティ化した子育て支援政策になるのは間違いないところだ ― マ、年金もそれに近い発展史を歩んできたが。

いや、いや、話しが逸れてしまった。それに大きくなりすぎた。

さて、「子持ち様」という新語について、だ。

子育て世帯を経済的に、また時間的に優遇するなら、子育てから解放されている人が、子育て世帯に支給されるサービスをカネの負担や拘束時間の形で負担する。そんな結果になるのは必然的なロジックだ。

もし日本社会の中で、あるいは会社の内部で、自分は関係ないのに他人の「子持ち様」を助けてあげる義務を押しつけられている、と。そして不満をもつ。こう感じる人が大半を占めるなら、

社会が子供を育てていく

という理念は、日本社会においては実行不可能である。

小生が育った時代において「子持ち様」という単語がなかったのは、

親族が子供を育てていく

という共有された常識があったからだ。故に、子育てと職場は(原理的に)無関係であった。

若い夫婦に子供が生まれれば、親類である祖父母や叔父、叔母も(もちろん伯父伯母も)忙しくなるのは当たり前でどの家庭も同じ、疑問などを持ちようがなかったわけだ。実にシンプル、議論のしようもなかったのだ、な。

実際、若い夫婦に子供が1人生まれたとして、親類が集まれば祖父母4人、叔父、叔母他が両家併せて概ね6人、合計で10人にはなる ― 実際にはもっと多かったか。預かるにしても、子守をするにしても、簡単なことだ。このように子供は育っていった。

親族が近隣に住むという社会状況が失われ、子供は核家族で育てられることになった。それでも主婦専業の常識が機能していたおかげで、育児活動に(時に実母?や姉妹?に援けてもらう緊急時があったにしても)大きな支障は生じなかった。急速な家電製品の進化もそれを可能にした。ところが日本国内の生産年齢人口が1995年をピークに減少してくる中で、農村の共同社会ももはや実体はなく、女性にも産業への就労、労働力化が求められ、外で働く女性が当たり前となり、男女雇用均等社会にもなると、上のような育児システムが維持できなくなった。世代交代システムの危機が訪れた・・・要するに、こういうことである。

親族という実体が崩壊し、核家族すらも機能しなくなれば、子供は社会で育てるしか方法がないであろう — この「社会」を「国」と認識するか、「地域社会」と認識するかは、意外と大事な点だと思うが。ともかく、この単純な事実に現代日本社会は慣れなければいけない。そういう理解をするしかないわけで、他に選択肢がないという意味では「一本道」である。

ただ「子持ち様」への不満は、少々、誇張されているような気もする。

というのは、多くの人が子供を育て、そうでない人が少数なら、そもそも日本は少子化に悩む社会ではないはずだ。

なので、ロジックとしては「子持ち様」と言われる人が、実は社会の中で期待されるほど多くない。「子持ち様」が少な過ぎることこそ社会問題なのだ、と。そう理解するべきだろう。

それに本当に手がかかる「子育て期間」は、学齢期に達するまでの数年間で、小学校に上がれば親の時間的負担は相当軽減される ― その代わり、経済的負担が増してくるわけだが、「子持ち様」問題は、経済的負担というより、時間的負担が主たる論点だろう。

なので、人的労働という形で助けてあげるべき「子持ち様」が、人数という次元で社内で今後とも急増するという事象は、小生にはチョット非現実的に思える。

こう考えると、少数の「子育て世帯」を、多数の「非子育て世帯」が支援するのは、それほど過大な努力を強いる結果にはならないものと思われる。


この点は、減少しつつある現役世代が、増加しつつある高齢世代をいかに支えるかという問題とは本質的に異なる。

仮に「子育て世帯」が増え、相対的に少数になった「非子育て世帯」の負担が過重になるようなら、むしろ社会状況としては安心できる。(遠い先だろうが)仮にそうなれば、子供を持つ・持たないことから生じる負担の不平等を是正するうえでも、重点的な子育て支援政策は縮小しても問題はないだろう。


【加筆修正:2024-05-10、05-11】

2024年5月7日火曜日

ホンノ一言: マスメディア業界にも近いうちに黒船がやって来るのではないか

 最近の国内メディアが愛用し始めている表現に

欧米メディアも・・・を絶賛しています。

欧米のファンも・・・にはビックリ仰天で絶句している。 

等々というのがあって、どうやら欧米の受け止め方を日本語で国内に伝えると、視聴者・読者が喜ぶと考えているらしいのだ。何だか

欧米はヒノキ舞台で、昔なら花のお江戸

日本は片田舎で、昔なら西国の小藩

まさかこんな心理じゃありますまいネ・・・そう感じたりする。


分野は違うが、その昔のデパートが採っていた商品戦略を思い出す。

小生が若かった時分は、銀座や梅田にルイ・ヴィトンやシャネルといった超一流ブランドの直営店はなかったので、国内でそれらの品にアクセスするには、三越や高島屋、伊勢丹など老舗百貨店に行くしかなかった。

その頃は、デパートとスーパーを分ける最大の違いは、扱っている商品のブランド価値にあったわけだ。

ところが、海外一流ブランド企業が続々と日本直営店をオープンするのに伴って、正規代理店であった日本のデパートは存在価値の大きな部分を失うに至った。


同じ道をいま国内老舗メディア企業がたどりつつあるようだ。

欧米メディアの報道ぶりを日本人向けに日本語で伝えるやり方が儲かるのであれば、日本企業に儲けさせておくよりは、日本支社を設けて、日本語版を直接販売するほうが利益になると思うだろう。

三越にシャネルを売ってもらうよりは、直営店を開いてダイレクトに売る方が得だとフランス本社が考えたのと同じ理屈だ。流通が合理化されると、多段階の仲介業は居場所がなくなる。これはずっと一貫して進行してきたプロセスである。


例えば、ジャニーズ報道で名をはせたBBCやアメリカのリベラル派報道で著名なCNN、更にはThe New York Times、USA Todayなどは、日本市場に進出する有力な候補だろう。

NYTはWEBビジネスが好調で先日も以下の報道があった:

米新聞大手 ニューヨーク・タイムズ (NYT)は8日、デジタルと紙媒体を合わ総有料購読者数が9月末時点で1008万人となり、1千万人の大台を突破したと発表した。 デジタルだけの購読者が941万人と3カ月間で約21万人増えた。 NYTは2027年末までに1500万人に拡大する目標を掲げている。

英語という言語の国際競争力そのものである。 

しかしながら、AIを活用すれば、言語の違いは、低コストかつ効率的にクリアできるはずだ。NYTの日本語版もその気になれば実現は容易だろう。

実際、Wall Street Journalは日本語版を提供している。今はチョット購読を休んでいるが、この間まで小生も愛読していた。WSJの日本語版を購読すると、オリジナルの英語版にもアクセスできるのでコスパが高いのだ。もう一つ、The New York Timesをヒョンな理由で中断していたが、4週4ドルで購読を再開した。この価格は1年限りのキャンペーン価格だが日本経済新聞の10分の1である ― 円安で10分の1とは言えなくなったが。


日本のメディア業界は、政府による許認可と再販制でゴテゴテに守られている保護産業である。最近の国内メディアの失態によって日本人読者層、視聴者層が寄せる信頼にもひびが入り、日本の資本規制に対する国際的批判に極めてヴァルネラブルな状態だ。日本政府も抵抗できないだろう。いずれ自由化され外国メディアの黒船がやって来ると予想する。


小生の父の世代では、朝日新聞と日本経済新聞を購読するのが知的階層の必須のツールであったのと似たイメージで、やがてBBCの地デジ放送を日本語で、人によっては英語で視聴し、The New York Timesの(とりあえずは)日本語版を予約購読するのが、ハイブラウな日本人家庭の習慣になるかもしれない。

BBCもNYTも日本特有の閉鎖的記者クラブ制などは解体しろと迫るだろう。

グローバル化の荒波を避けるには、日本独自の価値観や倫理観、美意識を国内メディア企業が体現するのが決め手だが、この時代、自国の憲法改正を自国で議論もできないほど自主独立の精神を失った日本で、もうこんなことは無理な相談だろう。

【加筆修正:2024-05-08】


2024年5月5日日曜日

ホンノ一言: 再上昇しつつあるエンゲル係数

昨年の今頃、年間収入別のエンゲル係数を調べた。結果は本ブログにも投稿している。外食と酒類購入は除外した。

その時は令和元年10月の消費税率引き上げでいったん上昇したエンゲル係数が下がりつつあるという形をしていた。しかし、その下がり方には年間収入階級間で違いがあり、生活に余裕のある第5五分位階級でより大きく下がっている。余裕のない第1五分位階級ではエンゲル係数がほぼ上がったままになっている。そんな傾向が見てとれた。

この1年、円安を背景に日本でもかなり物価が上がってきたが、その反面、賃金上昇がそれに追いつかず、暮らしは苦しくなっていると憶測される。

そこで、同じ図を描き直してみた。



データは「2人以上の世帯」だから単身者世帯を除いた平均的な姿を表している。

明瞭な点は、下がっていたエンゲル係数は年間収入とは関係なく再び上昇しつつある、ということだ。

加えて、年間収入階級間のエンゲル係数の開差がこの20余年間で拡大してきている。これは実質的な生活水準における階級間格差が拡大しているという事実を示唆しており、不平等度を測る指標としてよく使われている「ジニ係数」とは別の次元から、進行しつつある格差拡大を伝えるものである。



エンゲル係数は直ちに生活水準を伝えるものではないという点には留意するべきだ。が、消費支出のうち必需性の高い食費に費やされる割合が上がれば、その他の支出、たとえば教養娯楽費、教育費などのサービス支出を控えなければならない。家計のやりくりには厳しさがつのっているはずだ。これも実質賃金が低下していることの反映だろうと解釈している。

【加筆修正:2024-05-06】





2024年5月4日土曜日

最近の憲法論議にはまったく関心をもてなくて

昨日は憲法記念日だった。が、だからと言って、このブログで何かを書いて来たわけではない。

とはいえ、憲法という話題は日本人なら誰でも関心をもつ、というより持つべき最大公約数的な話題の一つだろうと思う。

昨日も憲法関連の多くの討論会や集会が開催された模様だ。

ところが、よく見ていると小生が幼少期であった頃から同じ状況が続いていて、要するに

憲法を改正したい自民党サイドと憲法を護りたいリベラル(?)左翼と

つまりは、憲法を修正するかしないかで対立している。

改憲派 vs 護憲派

実にシンプルだ。個々の修正箇所がからみあい、捻じれあって、複雑な対立になっているわけではない。

これ以上、単純な対立構造はありえない。

しかし、いま現代日本が抱えている問題が、こんな単純な言論上の対立と対応関係にあるとは、到底思えない。現実の問題はもっと複雑である。故に、憲法改正を議論するとしても、改正案は幾つも複数あるのが当たり前だと思う。

「もはや戦後ではない」と経済白書が書いた昭和31年から数えるか、保守合同で自民党が誕生した昭和30年から数えるかはともかくとして、もう80年も憲法を直すか直さないかで同じ論争を続けているわけだ。

これをみて

日本人は、結局のところ、自国の憲法を修正しない、というより出来ないのだ

と、法治国家の市民としての、また民主主義国の有権者としての、自らの極めて低い能力に対して、ウタタ情けなさを感じてしまう日本人が増えているとしても、小生はまったく驚かない・・・「増えている」かどうかは分かりませぬが。

実際、戦前の大日本帝国憲法も戦後の日本国憲法も、両方を含めて、日本人は憲法改正なる作業を頑張って成し遂げたことは一度もない。

この点はずっと前に一度投稿したことがある。これが、政府の弱さを伝えるのか、政治的怠慢を表すのか、国民の分断の深さを示すのか、日本人が憲法という基本法を実はそれほど大事だと感じていないという事実を教えているのか、小生にもこんな風になっている原因はよく分からない。

確かに、戦前から戦後にかけて憲法は大幅修正されたが、これは占領軍であったGHQ主導の下に断行されたもので、だから戦後を代表する憲法学者であった宮沢俊義は「八月革命説」を提唱していた。ま、実際、敗戦を機に日本の権力構造は一新され、(外国勢力主導の)革命がなされたと考えるのが、当時の状況を正確に言い表していると思うので、「八月革命説」に一票を入れたいというのが小生の立場だ ― 憲法理論には素人だが。

いわゆる「護憲派」は、憲法を護ると言う以上、憲法は修正しないと主張していることになる。

しかし、最高裁判決で「違憲判決」が幾つも出てきているのも事実だ。

国政選挙における「一票の格差」は何度も違憲状態だと指摘されている。現状と条文とが矛盾していると判断する判決が多いということだ。とはいえ、現実を冷静に観察せず、正しいのは憲法の条文で、現実が誤りだと観念論的に断言してよいのだろうか?

また、最近ではLGBTQに関連して、同性結婚を認めるかどうかで、違憲と合憲とで判決が揺れ動いている。司法判断が揺れているのは、社会の現実の必要性と憲法の条文とが調和しないためで、文言の解釈によって違憲にも合憲にもなるからだ。ずっと以前は<両性=男女>と解釈するのは合憲とする判断が多かった。だから婚姻は異性に限っていた。しかし、最近は<両性=男男あるいは女女>のケースも含むとする判決が出てきている。もし今後将来、同性結婚を認めないのは違憲とする判決が常に出るようになれば、同性結婚は正式に認められるだろう。婚姻届や戸籍の様式、その他関係する制度も変更されるだろう。しかし、それでも憲法の条文は変えず、解釈だけを変えるのだと、小生は予想する。実質的な憲法改正が「改憲だ」とするニュースもないまま、無意識に近い形で通ってしまうに違いない。

周知の「9条問題」もそうだ。集団的自衛権を否定する姿勢から認める姿勢へと180度転換したが、これも同じ条文を読みようによっては、そう読めるということだ。どちらとも解釈できるので再解釈したのだというロジックだが、実質的に憲法を改正したと外国の法律専門家が指摘するとして、日本側はどう反論するのだろう。

条文の解釈と再解釈によって実質的に憲法を改正するやり方は、小生には全ての法律専門家の知的怠慢であるとしか見えない。

要するに、憲法改正に関連する問題が、実際には多々あるにもかかわらず、「護憲派」は憲法改正の必要性を何も語らない。というか、解釈の変更で憲法の運用がどうにでも(?)なるなら、確かに憲法改正などは必要ないというロジックになる。よく言えば「融通無碍」だが、悪く言えば「いい加減」である。憲法は神棚のお札に書いてある文字と同じであるわけだ。


これ以上の欺瞞はないとするのが自然な見方だろう。

自民党の憲法改正は確かに復古的で、非現実的、噴飯ものである。が、左翼側の護憲姿勢も同じ程度で極めて不誠実で、空っぽの頭脳を露呈している、と。

しかしながら、達観して言えば、日本のお国柄は実際の問題を解決するための「巧みな」便宜主義にある。憲法は「神棚にあげて」あえて変えないと。意図的かどうか分からないが、そう主張するリベラル左翼の方こそ、欺瞞に見えながら、実は日本の知恵に裏打ちされているのだ、と。

そうとも見えてしまいますがネエ・・・と。そんな感覚もある。

ま、いずれにせよ、グダグダの状態には変わらない。

仮に、リベラル左翼が社会の現実にあった憲法改正案を提案するとすれば、どこを修正するべきだと考えているのだろう。

例えば、その時の総理大臣の都合で行われている「根拠なき衆議院解散」を認めてよいのか。天皇が統治者であれば天皇が議会を解散するという権能を認めるべきだというロジックはあるかもしれない。しかし、今は三権分立だ。いくら議院内閣制で、議会の多数派が行政府を構成しているとしても、「解散だ!」と総理大臣がいえば、国会議員は職を失うのか。当然、憲法改正の焦点の一つになりますワナ。

ちなみに、日本がお手本にしているイギリスでは、議会が解散する意思決定をするのは議会のみであると首相権限を制約していたが、これまた政治的膠着を打開できない原因になるという理由で、この制約を撤廃する選択をしている(これを参照)。

日本では首相による解散の根拠は憲法であると認識されている。これでイイのか?

他にも、社会が責任をもって子育てをするというのはどういうことか?教育を受ける権利をどう規定するべきか?自らの勤労の結果である高齢者の生活状態と生存権とをどうバランスさせるのか?「人権」をどう尊重するべきなのか?等々、憲法レベルで規定した方がよい事項は多々あるでしょう。


世間では、こんな議論もあるのだから、「憲法は絶対に変えない」と、そればかりを主張しても、頭脳レベル、社会常識を疑われるだけだと思うが、どうだろうか?

まあ、こんな情けない情況が半世紀をゆうに超えて続いているので、世間の憲法論議にはまったく関心をもてなくなったのが、率直なところだ。

【加筆修正:2024-05-05、05-06、05-07】